プロ野球パロ(元相棒とファウスト)

 あいつと組んでから何度酷い目にあったかわからない。

「俺様のサインに首振んな」
 入部早々あいつはそう宣言した。傍若無人、傲岸不遜。これらの言葉はあいつのためにある。宣言通り、サインに首を振ったピッチャーたちは皆マウンドを降ろされた。
 それでも、俺は愚直にあいつのサイン通りにボールを投げた。それしかなかったからだ。
 球速があるわけでも決め球になる変化球があるわけでもない。でも、あいつのサイン通りに投げればバッターを抑えられた。
 あいつのリードは容赦がなかったし、投げきれなければボロクソに言われる。それでも、投げ切った瞬間の興奮が忘れられなかったから、俺はここまできてしまった。でも─。
(なんでだよ)
 九回裏同点ワンアウト満塁フルカウント。犠牲フライでもスクイズでも、そして─押し出しでも一点勝ち越しの場面だ。こうなってしまえば目の前のバッターと勝負するしかない。こんな時、ピッチャーは孤独だ。
 このシーンであいつが出してきたサインは右打席のバッターの内角いっぱいのストレートだった。
(当てたら終わりだぞ。わかってんだろうな)
 俺は初めてサインに首を振った。正直、首を振ればあいつがタイムを取ってマウンドに来るだろうと思っていた。そうしたら意図を問い詰めてやろう。しかし、あいつは平然ともう一度サインを送った。
 内角いっぱいのストレート。
 これまで首を振ったことのない俺が首を振っても、あいつは何一つ動揺せず同じサインを出す。マウンドにだって来やしない。その時初めて心が折れた。

 俺の投げた球は高めに外れた。

「お疲れ様」
 ロッカーでよく知った声が背後から聞こえた。同僚のファウストが俺の隣のロッカーに鞄を置く。
「先生もトレーニング?」
「ああ」
 『先生』というのはファウストの愛称だ。呼び始めたのが誰かは知らないが、研究熱心な様子や教師のように小言が多いところから付けられたものだった。チームメイトは尊敬と揶揄いを込めて呼んでいる。
「オフはゆっくり休めた?」
「ぼちぼちかな」
 シーズンが終わってから短いオフを取り、先週から自主トレを再開している。俺は例年のように球団のトレーニングルームに来ていた。最近は地方や海外で自主トレをする選手も多いけれど、俺はシーズン中と変わらず球団施設を借りている。先生も、後輩を集めたり先輩を頼ったりして外部で自主トレをするタイプではなく、シーズン後にロッカールームで会うのはいつものことだった。
 先生と俺は同期入団で、高卒の先生と大卒の俺は年齢だとちょうど四歳差だ。球団施設で自主トレをしている選手は若手が多いから、七年目の俺と先生は自然と浮いていた。
「俺はうかうかしてるとあっという間に落とされるからさ」
「去年はキャリアハイだろ?」
「まあ、そうだけど……
 一勝四敗十一ホールド二セーブというのが俺の昨シーズンの成績だった。中継ぎに転向して三年目にしてキャリアハイだが、満足のいく成績ではない。二度ファームに落ちながらもなんとか一年一軍で投げられたのは良かったし、勝ちが見える試合で出してもらえるようにもなった。それでも自分のせいで負けた試合が四度ある。
「抑えをやりたいんだろ」
 それは中継ぎに転向が決まった時の俺のコメントだった。試合の頭で投げる先発ピッチャーと試合の途中から継投で繋ぐリリーフピッチャー。リリーフピッチャーはどの場面も難しく重要ではあるが、やはり九回を投げる抑えというのが頂点だ。コメントを求められれば、誰だってそう答えるもんだろう。
「俺は抑えは向いてないよ」
「どうして? 大学の時は抑えだっただろ?」
「メンタルが弱いから」
 自嘲する。確かに学生時代は抑えをやっていたこともある。しかし、その時の経験こそが、抑えには向いていないと強く自覚させた。
「そうか」
 先生はそれ以上強く言わなかった。こういうところがこの同期のやりやすいところだ。
「まあ、人のことを言っている場合じゃないしな」
 先生は着替えるとロッカーを閉めた。
 四勝六敗。今季のファウストの成績だ。年間通してきっちり仕事はしていたと思うが、なかなか勝ちにつながらない。
 それでもチームメイトに当たることもなく、黙々と投げ続ける姿を俺は尊敬していた。ああいうのがいわゆる心の強さというやつなんだと思う。
「先生はさ……。九回裏同点ワンアウト満塁フルカウント、ワンストライクスリーボールの場面で、内角いっぱいのサインが出たらどうする?」
 そんなことを聞いたのは、先ほどの会話で学生時代の記憶が蘇ったからだった。
「そんなの首を振るだろ」
「だよなあ」
 即答だった。
「僕なら打ってもファウルになる緩めの変化球を、ストライクゾーンからギリギリ外れるか入るかってところに入れるかな。まずはカウントを整える」
「いや、ほんとそれ……
 心の底から賛同すると先生はふっと笑った。ほんの少し自嘲するようでもあった。
「あくまで僕の話だよ。きみにそのサインが出たのなら制球を信頼していたんだろ」
「えっ?」
「僕の場合はコントロールよりは球のキレと変化で振らせるタイプだから、カウントが悪くなってからギリギリのコースにサインを出すキャッチャーは少ない。でも、きみはコントロールがいい。信頼しているからどんな状況でも厳しいコースを要求できるってことなんじゃないかな」
 『信頼』という言葉が口の中を苦くする。本当にそうだったのだろうか。
「信頼っていうなら、こんな気持ちにはなってないよ……
 俺は小さくこぼした。あれが俺の投球への『信頼』だったらどんなに良かっただろう。けれど、あれはそんなもんじゃない。
 あいつが持っていたのは、俺があいつの言うことを聞くっていう確信だ。
「信頼されないのも辛いけどね」
 先生の声色がいつになく冷たく、固いものだったので俺は思わず背を向けた。
「ネロ! ファウスト先生!」
 ロッカールームに慌てたような声が響く。
「どうした? ヒース」
 今年二年目のピッチャーであるヒースクリフがスマートフォンを片手に駆け寄ってきた。
「二人とも球団のニュース見ました?」
「ニュース?」
 この時期のニュースといったら移籍に関するニュースだろう。俺と先生はヒースの示した画面を覗き込んだ。
「なっ……!」
 驚いて息を呑んだ。所属球団のニュースリリースには新たに獲得した選手の名前が載っている。そこにあったのは─。
「ブラッドリー・ベインか。よくうちが取れたな」
「前評判だと他に行くみたいでしたよね」
 今年のFAの目玉は球界屈指の捕手、ブラッドリー・ベインだった。クレバーな配球と強肩が持ち味。大学卒業後、ドラフト一位指名で将来を期待されて入団し、それに見事応えてきた。
「ブラッドリーはきみの大学の先輩だっただろ?」
「ん、ああ……
 先生の言葉に俺は二つ返事を返した。
 ブラッドリー・ベイン。
 ネロが決して首を振らないと誓った相手。
 学生時代、優勝のかかった試合で一度だけ首を振った相手。
 そして、ボールが外れても、何一つ彼を責めずに卒業していった男。
「来季は俺たちの球を受けるんですかね」
 ヒースの言葉に俺はぞっとした。あいつと再びバッテリーを組むなんて冗談じゃない。もう二度とあいつのサインなんて見たくなかった。もう二度と首を振りたくなかった。
 ガンっと金属のぶつかる軽い音がする。無造作に閉めたロッカーの扉は思ったよりも派手な音がした。
「悪い。俺先に行くわ」
 二人から逃げるようにロッカールームを出る。そのくせ足はトレーニングルームには向かわなかった。