Case2: 星は何を繋ぐのか

 

 「いらっしゃいませ」という声に迎えられて、俺とラスティカは店内に入る。それほど広いわけではなかったけれど、店内は裁縫箱さながらに、さまざまな布地やボタン、それらから作られた洋服に溢れていた。
「本日はどのような品をお探しですか?」
 店員さんが俺たちに声をかける。彼女が身につけているのも、形の美しい紫紺のジャケットだった。
「豊かの街でこちらの洋服を拝見しまして」
 ラスティカがそう口にすると、「ああ」と店員さんも微笑んだ。
「ウルバーニ氏のところしょうか?」
「はい。とても素晴らしい洋服でした。それで、彼にスーツを一着仕立てていただきたいと思って」
 店員さんの目線が俺に向く。精一杯胸を張って背筋を伸ばす。ここの洋服が似合うことを示そうとするためのささやか過ぎる努力。でも、彼女は俺とラスティカを見やると深く頭を下げた。
「大変申し訳ございません。オーダーメイドの仕立ては今お受けできないんです」
「おや、何かあったのですか?」
「今はお受けできかねますとしか……」
 彼女の目は困ったように泳いでいる。
 このメゾン──『フィオレ』は高級と呼んで差し支えない洋装店だった。富裕層を顧客に抱えるメゾンでは、オーダーメイドの洋服を取り扱うのはごくごく普通のこと。既製品の洋服はいわばカタログや見本であって、採寸してもらってぴったりの洋服を仕立ててもらうのが本来のサービスだ。最近の西の国では既製品の洋服も人気だけど、オーダーメイドの仕立てを完全に止めてしまうほど革新的な店にも思えない。
「残念だったね。どうする?」
 ラスティカに問われて俺は大丈夫と軽く笑った。むしろこんな高級店で服を仕立ててもらうのは申し訳なくて、気後れしていたところだった。ラスティカに乗せられてここまでやってきたものの、むしろほっとしたという気持ちだ。
「それならこのお店にある洋服を見せてもらってもいいですか?」
 俺は店員さんに尋ねる。彼女は安堵したように笑顔を浮かべると「もちろんです」と答えた。

☆☆☆

 俺とラスティカが『フィオレ』を訪ねることにしたのは、豊かの街にあるウルバーニ氏の店を訪れたのがきっかけだった。彼の店は西の国中のブティックやメゾンが作る洋服を集めている。
「すごい!」
 俺はラスティカに連れられて季節ごとに何度か彼の店に足を運んでいた。ラスティカは元々ウルバーニ氏のお祖父さんと親交があって、こうして店が孫に譲られた後も時々顔を出しているらしい。その頻度がこの数年上がったのは、多分俺のせいだ。
 まだ秋の盛りだというのに店に並んでいるのは春物かもっと先の夏物ばかりだった。どのブランドもすでに未来の洋服を作り始めている。俺はこの忙しなさが嫌いじゃない。少し先の楽しみが、ここには詰まってる。
 コレクションの中でもひときわ目を引いたのは白のドレスだった。シンプルけど質の良い生地で、ほんの少し生地よりも明るく光る糸で細やかな刺繍がされている。何よりも目を引くのはドレスの形の美しさだ。スカートの広がりは美しく上品に、首元まで覆う上半身はすっきりと整っていた。
「クロエ坊ちゃんは見る目がありますねえ」
 ウルバーニ氏はにこにこと笑いながら俺の側に寄ってきた。彼は気の良いおじいちゃんの顔をして、俺に色々なことを教えてくれる。
「これは『フィオレ』のドレスですね。パターンが美しいでしょう」
「うん。腰の切り返しが自然で、シルエットがすごく綺麗」
 自分だったらこんな形が思いついただろうか。思いついたとしても、これだけ綺麗に縫い上げられるだろうか。
「お二人はこの後どちらに行かれる予定で?」
「まだ決めていなかったね」
 ラスティカは出された紅茶を飲みながらのんびりと答えた。俺もラスティカの答えに頷いた。
「それなら『フィオレ』のアトリエに行かれてはどうですか? ここから南の方に少し行った街に本店とアトリエがあるはずです」
 ウルバーニ氏はデスクの引き出しを開けると取引先名簿のようなものを取り出した。
「ラスティカ。俺、行ってみたいな」
「うん。それなら次はそこへ行こうか」
 そうこうしている間にウルバーニ氏が立派な紙に『フィオレ』の住所を書き留めて俺に渡した。ラスティカではなく俺に渡すんだから、この人もラスティカのことをよくわかっている。
「そうだ。クロエの洋服を仕立ててもらおうか。そうすれば、間近で仕立ての仕事も見られるだろう?」
「えーいいよ。そんな……」
 この店に並べられているようなメゾンでオーダーメイドの洋服を仕立てたらいくらになるのか、なんとなく見当はつく。それって俺が人生の中で目にした金貨銀貨全部集めたよりも高価なはず。
「来月はクロエの誕生日だろう? そのプレゼントにどうかな」
 俺の十八歳の誕生日にそんな価値はない。けれどラスティカとウルバーニ氏は「良いですな」と二人で勝手に盛り上がっている。こうなると俺が口を挟もうとしてもあまり意味がないことは体験済みだった。

☆☆☆

 そんなわけで俺とラスティカは豊かの街を出て、『フィオレ』の本店やアトリエがある街へとやってきた。街といっても豊かの街とは比べ物にならないほど小さな街だ。けれどその分空気も街の人の雰囲気も穏やかだった。
「仕立てができないなんて残念だったね」
「あ……うん」
 俺は残念というより不可解という気持ちの方が強かった。注文が殺到していて仕立てに時間がかかるというならわかる。だけどそれならそうと言うはずだ。店員さんの歯切れの悪さはどうにも気になる。
「とりあえず宿を探そうか」
「そうだね」
 残念ながら用事は早々に済んでしまった。急げば豊かの街にとんぼ返りすることもできなくない距離だけど、初めてきた街なので少し滞在して見て回ろうというのが先ほど俺とラスティカで決めたことだった。この辺りは昔から服飾産業で栄えているようで、『フィオレ』以外にもいくつかのメゾンや服飾品を扱う店がある。
 街の中心部に向かって、緩やかな坂道を俺とラスティカが歩いている。ちょうどそのときだった。
「待ってぇ!」
 甲高い声と同時に俺たちの前を人影がさっと通り過ぎた。後ろ姿で女性だということはわかる。彼女は坂を全速力で駆け下りながら何かを追いかけている。手を足下に伸ばしてその何かをパッと拾い上げる。その瞬間、彼女の体がぐらりと傾いた。
「《アモレスト・ヴィエッセ》」
 俺が「危ない!」と声をあげるより先にラスティカの呪文とともに彼女の体がふわりと宙に浮いた。それから坂の途中に現れた椅子の上へと、静かに下ろされる。俺より年下の女の子だ。腕に籠を引っ掛けていてそこに毛糸が入っている。反対の手にも毛糸を掴んでいた。毛糸を坂道で落っことして追いかけていたらしい。「危なっかしい」というのが俺が彼女に抱いた第一印象だった。
「お怪我はありませんか?」
 ラスティカは女の子に向かって優雅に微笑みかけた。彼女は驚いた顔のままラスティカを見つめている。
「どうも……」
 きっとお礼を言おうとしたのだろう。けれど、彼女の声よりも大きな声が響いた。
「魔法使いだ!」
 その声に俺は思わず身を竦める。ここは街の中心部に向かう大通りで通行人は多かった。「あちゃあ」と俺は頭を抱える。周りの人々の視線は俺とラスティカ、そして女の子に向けられていた。
「お礼をさせてください。親切な方」
 女の子は椅子から立ち上がると驚きから目覚めたようにきっぱりとした口調で言った。そして俺とラスティカの腕を引いて、街の中心部とは逆方向を示す。
「お言葉に甘えようか」
 ラスティカは相変わらずお茶に誘われでもしたかのようにゆったりとしていた。

 女の子はヴェーラと名乗った。
 彼女が俺たちを連れて行ったのは、街から三十分ほど歩いたところにある小高い丘の上にある家だった。
「私とおばあさまが住んでいるの」
 ヴェーラはリビングのソファにつくと、俺とラスティカにお茶を勧める。
「先ほどはありがとうございました。魔法使いさん」
「僕はラスティカと言います」
「俺はクロエ」
「ラスティカさんにクロエさんね。気を悪くしないでほしいの。このあたりでは魔法使いを見ることがほとんどないから」
 ヴェーラは俺たちが申し訳なくなるくらい深く頭を下げた。
「気にしないで。よくあることだし」
「それはもっと気にするわ。あなたたち、いい魔法使いなのに」
 ヴェーラは栗色の髪を振り回すように首を振った。
「私はおばあさまの仕事の都合で魔法使いの方にも何度か会ったことがあるの。みんな普通のお客さんよ」
「おばあさま?」
 俺が問いかけたちょうどそのとき、部屋の奥から誰かがやって来る気配がした。
「ヴェーラ? どうしたの?」
「おばあさま」
 現れたのは品の良さそうな年配の女性だった。髪は真っ白になっていて、少しやつれている感じがする。けれども、瞳の奥には強い光が灯っているように見えた。
 ヴェーラは短く彼女に事情を説明すると、彼女は「あらあら」と言い、ヴェーラと同じように俺たちに頭を下げた。
「ヴェーラを助けていただきありがとうございます」
「頭を上げてください」
 ラスティカが彼女に声をかける。
「街の宿には泊まりづらいでしょう。もしよければ今夜はここに泊まっていってください」
 それは願ってもない申し出だった。あの規模の街なら噂はあっという間に広まるだろうし、宿屋が魔法使いを拒めば俺とラスティカは野宿するしかない。野宿の準備はあるけれど、屋根のあるところで寝る方がずっと──ずーっと良い。
「お言葉に甘えようか。クロエ」
「うん」
 残念ながら街を見て回ることは出来なさそうだ。一泊して、明日の朝には他の街へと向かおう。
 俺とラスティカはヴェーラのおばあさんにも名乗った。彼女も会釈して名乗る。
「フィオレと申します。すみません、最近体を悪くしておりまして、何かあれば遠慮なくヴェーラに言ってくださいね」
 その名前を聞いたとき、俺はえっ、と驚いて彼女の顔を見やった。けれど残念ながら、顔を見るだけでは俺の想像が合っているかの答えはわからなかった。
「そうよ。おばあさまは寝ていて」
 ヴェーラは気遣わしげな表情でフィオレの側に駆け寄ると、二人で一度リビングを出ていった。そして、すぐにヴェーラが一人で戻ってきた。
「もしかしてきみのおばあさまって……」
 俺が前のめりになるとヴェーラは苦笑して答えた。
「そうよ。おばあさまは『フィオレ』のデザイナーで創業者なの」
「俺、街のブティックに行ってきたところなんだ」
「そうだったの? ここはおばあさまの自宅兼アトリエ。こんなときじゃなかったらいろんなものを見せられたのに」
「こんなとき?」
 俺が問い返すと、ヴェーラは「いけない!」という顔をして口を閉ざした。
「客室を整えてくるわ。ゆっくりしていて」
 そう言い残すとヴェーラは俺とラスティカを残してリビングから出ていった。
「何かあるのかな」
 俺は少し声を潜めてラスティカに問いかけた。
「オーダーメイドのこと?」
「うん。フィオレさんの体調が良くないから休んでいるのかなって」
 でも──と言いながら俺は自分の発言を覆した。
「多分仕立てを担当しているのは他の人たちだよね」
 『フィオレ』くらいの規模のメゾンともなれば一人で切り盛りできるものじゃない。あの洋服の全てをデザインから縫製までフィオレさん一人でやっているとは考えにくかった。おそらく彼女以外にも『フィオレ』には職人やお針子たちがいるはずなのだ。
「そうだね。他の人たちはどうしちゃったんだろう」
 俺はうーんと唸った。ヴェーラは何かを隠すようだった。あまり他の人の事情に首を突っ込むもんじゃないって思うのだけど、『フィオレ』の洋服を気に入っているからこそ、俺はこの異変が気になってしょうがない。

 『フィオレ』にある事情が明らかになったのは、夕飯時だった。
 玄関のベルが鳴って、ヴェーラは玄関を開けた。俺とラスティカは食卓についたまま、彼女の背中ごしに来客を窺う。
「ヴェーラ、母さんに会わせてくれ」
「もう寝てるわ」
「起こしてくれ」
「やめて。おばあさまの具合がよくないの、知ってるでしょう?」
「だからこそ、だ」
 訪問者とヴェーラの声は共にどんどん大きくなっていった。ラスティカと俺は立ち上がり、玄関の方へと行く。訪問者は一人ではないようだった。ヴェーラは不安と怒りの両方を顔に浮かべている。
「失礼。先客としてご挨拶に」
 ラスティカが緊張状態の二者の間に割り込んだ。俺が口を挟む間もない。でも、ラスティカならそうするだろうなと思っていたのも事実で、俺はラスティカの隣に並んだ。
「おまえは誰だ?」
 ヴェーラが対峙していたのは四十過ぎの男性だった。口髭を蓄えていて、ラスティカよりも一回り大きく見える。
「ラスティカ・フェルチと申します」
 ラスティカは貴公子然とした優雅な礼をする。
「そいつ街に現れたっていう魔法使いよ」
 男性の奥から声を上げたのは女性だった。年齢は男性とそう変わらないだろう。ヴェーラと同じ栗色の髪の女性だ。彼女は不審の目をラスティカとヴェーラに向けている。
「なんで魔法使いなんかが」
 もう一人、別の男性が声を上げた。ラスティカの前にいる人と背丈は同じくらいだが、体が薄く細身だ。
「伯父様も伯母様もお引き取りください! おばあさまは誰にもお会いにならないわ!」
「じゃあおまえはどうなんだヴェーラ。おまえは知ってるんじゃないのか? あの営業……」
 声を張り上げた男の口を女性が押さえた。
「部外者がいるところで止めましょう」
 彼は俺とラスティカを見やると、ふんと鼻を鳴らして口を噤んだ。
「私も何も知らない。知っていたら伯父様たちに話してるわ」
 ヴェーラは声を張り上げて大人たちに立ち向かっていた。
「どうだかな」
 皮肉っぽく言ったのは痩せた方の男だ。
「みなさまはフィオレさんに会いにいらっしゃったのですか?」
「そうよ」
「それなら残念です。フィオレさんはぐっすり眠っていて、朝まで起きてはこられないでしょう」
「どういうことだ」
 恰幅の良い方の男がラスティカに向かって唸った。
「安眠できるように僕が魔法をかけました。ご安心を。朝にはすっきり起きられるでしょうから、また明日いらっしゃってください」
 ラスティカはちらりと俺に向かってウインクをした。ラスティカがやったことと言えば一曲奏でただけだ。流れる音楽を聞いて、フィオレさんが「今晩はよく眠れそうだわ」とヴェーラに言ったそうだけど、これは魔法でもなんでもない。
「母さんに何をした!」
 男は再びラスティカに向かって怒鳴ったけど、ラスティカはどこ吹く風だ。
「お引き取りください!」
 最終的にはヴェーラが粘り勝って、訪問者たちはこの家を後にした。
 ヴェーラは床に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。指先が震えている。
「ヴェーラ……」
 彼女は気丈に振る舞っていたけど、子供一人で大人に立ち向かうのは勇気のいることだったろう。俺は彼女のそばに膝をついて優しく肩を叩いた。
「何か困っているのではないですか? 僕たちでよければ力になりますよ」
 ラスティカはヴェーラに目線を合わせると優しく声をかける。彼女はしばらく迷っていたが、意を決したように口を開いた。
「私と『フィオレ』を助けてください」

☆☆☆

「始まりは『フィオレ』の営業許可証」
「営業許可証?」
 俺が問い返すとヴェーラは説明してくれた。
「西の国で商売をするには領主様から営業許可証を発行してもらう必要があるの。私たちのような仕立て屋なら、きちんとした品質の安全なものが出せることが認められると営業許可が下りる」
 ラスティカも頷きながら聞いている。
「『フィオレ』はもちろん営業許可証を持っているんだね」
「はい。『フィオレ』はおばあさまが始めたメゾンです。歴史は浅いけれど、今や豊かの街の貴族の間にも名が知れるようになった」
 ヴェーラの口調は誇らしそうだった。けれど、それもすぐに萎んでしまう。
「だけど、おばあさまは去年の冬頃から体調を崩しがちになって……」
 『フィオレ』の中でもフィオレさんの三人の子供たちは優秀な職人だった。先ほどヴェーラが相手をしていた人たちだ。亡くなったヴェーラのお母さんもフィオレさんの娘だそうだ。
「私のお母さんは洋服に興味がなかったそうだけど、伯父様たちは立派な職人だわ。私はまだ見習いの針子だけど、いつか伯父様や伯母様、そしておばあさまみたいになりたいって思ってる」
 けれど、そうこうするうちに『フィオレ』の後継者争いが始まった。皆、次の『フィオレ』の代表は自分だと譲らない。
「だんだん仕事にも影響が出てきた。伯父様たちは元々得意分野が違うの。おばあさまの元で協力してやってきたから『フィオレ』はこんなに大きくなった。でもおばあさまが伏せってからはもうバラバラ」
「それで、オーダーメイドの受付を止めちゃったの?」
 ヴェーラは頷いた。
「とうとうおばあさまは営業許可証を隠したの。絶対に私たちに『フィオレ』を引き継がせないために」

 ヴェーラはつい一ヶ月ほど前の出来事を俺とラスティカに話した。
 子供たち三人と孫のヴェーラをこのアトリエ兼自宅に呼び出すとフィオレさんは告げた。
「私はあんたたちに『フィオレ』を渡す気はない。営業許可証は見つからないところに隠したから探しても無駄よ」
 そして、ヴェーラはフィオレさんから小箱いっぱいのビーズを渡された。
「ヴェーラにはこれを」
 他の三人にも同じように何かをフィオレさんは渡していたらしいが、それがなんなのかヴェーラにはわからなかった。ゆっくり話すような雰囲気ではなかったと言っていたけど、その様子は俺にも想像ができた。
「伯父様たちは私が営業許可証をもらったと思ってる。でも、本当に知らないの」
 ヴェーラはそう言って首を振った。
「営業許可証を隠した……。フィオレさんはそう言ったんですか?」
 ラスティカは何かを考えながら、ヴェーラに尋ねた。
「ええ」
「その営業許可証って見つからないとやっぱりまずいの?」
 俺の質問にヴェーラは苦いものを飲み込んだ顔で答える。
「営業許可自体は申請すれば下りると思う……。でも、創業者が営業許可証を隠したなんて知られたら『フィオレ』の信用も価値も無くなったも同然……」
 だからヴェーラの伯父さんたちは必死に探しているのか。
「私は……おばあさまがお怒りになってもしょうがないと思うの。ちゃんとした洋服も作れずに、身内で争って……。でもね。私にとっても『フィオレ』は憧れで、大事なものなの。おばあさまの気持ちもわかるけど、このまま『フィオレ』がなくなってしまうのも嫌……」
 ヴェーラはとうとう涙をこぼした。俺はハンカチを彼女に差し出す。
「ありがとう。クロエさん」
 ラスティカは何かを考え込んでいるようだった。
「それで、どうするの?」
「うん?」
 俺は声に出さず「みつけるの?」と口の形で五文字を伝えた。営業許可証が出てきたらあの兄弟たちは喜ぶだろうが、それはフィオレさんの本意ではなさそうだ。かといってこのままでは彼らの諦めもつかないだろう。
「明日みなさんに話を聞いてみましょう。彼らが普段いるところを知っていますか?」
 ヴェーラはラスティカに向かってこくりと頷いた。

☆☆☆

 慣れない場所だと俺はいつもより早く目が覚める。ラスティカはというと、どんなところでも朝には弱くて、俺が起こすまでなかなか起きない。バランスが取れているといえば取れているのかもしれない。
 知らない人の家をうろちょろするのもと思ったけれど、ベッドの中でじっとしているには目が冴えてしまった。洗面所を借りて顔を洗うと、服を着替えてリビングに向かう。そこに先客がいた。
「おはようございます」
「おはよう。クロエさん」
 フィオレさんがソファに腰を下ろしていた。部屋着だろうけど、生成りの生地にレースの編み込まれたワンピースは上品で、フィオレさんによく似合っていた。
「朝、早いのね」
「目が覚めちゃって……」
 ははは……と笑うとフィオレさんも目尻を下げた。昨日のヴェーラの話を聞いていると、苛烈な人に思えたけれど、こうして話をしていると彼女は春の日差しみたいに穏やかだった。
「そうだ、いいものを見せてあげる」
 彼女は少女のような笑みを見せた。俺は彼女に案内されるまま、二階に上がった。俺たちの客間もヴェーラやフィオレさんの部屋も一階にあるから、二階に上がるのはここに来てから初めてだった。
「ここよ」
 フィオレさんが開けた扉の先は階下のリビングよりも広い部屋だった。窓にカーテンがかかっているのか少し暗い。
「今カーテンを開けるわね」
 カーテンが開くと、朝日が部屋に入り込んで一気に明るくなる。俺は眩しさに目を細め、それからフィオレさんの指し示す方を──天井を見た。
「わあ!」
 天井には星が煌めいていた。濃紺の空に星座が描かれている。目が光に慣れて、俺はようやくそれが何でできているのかをよく見ることができた。空の濃紺は布、星はビーズ、星座を描くのは銀の糸だ。
「亡くなった主人の趣味でね。星が好きだったのよあの人。だから私と子供達でこの星空を縫い上げたわ。出鱈目の星座を作ったのはヴェーラの母よ。あの子全然裁縫に興味がなくて、星座だけ作って主人と笑ってたわ」
 室内には大きな作業台とトルソーが並んでいた。ここが『フィオレ』のアトリエらしい。
「街に出店してからはあちらで仕事をすることが多かったけれど、ここは私たちの原点なの」
 フィオレさんは天井を見上げて目を細めた。そしてぽつりと漏らした。
「あの頃は良かった」
「えっ?」
 彼女は首を振ってそれから俺の指先を見た。
「あなたも裁縫をするでしょう?」
 俺はびっくりした顔で頷いた。
「はい……」
「だと思った。洋服を作るひとの手だもの」
 フィオレさんは俺の手を取って撫でた。
「棚に型紙やデザイン図があるわ。大昔に描いたものだけど、よかったら好きに見ていってちょうだい」
「いいんですか?」
「ええ。私が死んだら終わりだもの」
 その言葉はひんやりとした手触りをしていた。胸に氷柱が突き刺さるような心地がする。フィオレさんの中にある悲しみや悔しさが滲んでいるようでもあった。
「……ありがとうございます」
 俺が頭を下げると冷たい気配がほんの少し薄れる。
「疲れたから少し部屋で休むわね」
 フィオレさんはそう言うと、階下までついていこうとした俺を手で制して、一人アトリエを出て行った。

☆☆☆

 俺とラスティカは『フィオレ』の本店がある街を再び訪れていた。魔法のおかげで道ゆく人の目に留まることはない。
「それで、ラスティカはどうするつもり?」
 俺は道を歩きながらラスティカに尋ねた。
「どう、とは?」
「営業許可証。見つけるのも見つからないのも違う気がして……」
 俺の頭の中にはヴェーラの泣き顔とフィオレさんの寂しそうな顔が浮かんでいた。ここで『フィオレ』が終わるのは惜しい。勿体無い。でもヴェーラの話した通りなら、たとえ営業許可証を見つけてもフィオレさんの作った『フィオレ』はもう戻ってこない気がするのだ。
「フィオレさんは『営業許可証を隠した』と言ったそうだね」
「うん」
「本当に営業許可書を渡すつもりがないなら、『営業許可書を破棄した』という方が自然じゃないかな」
「確かに……」
 その通りだ。破いたり燃やしたりしてしまえば営業許可書を受け継ぐことは絶対にできない。
「隠したということは見つけて欲しいんだ。だとすれば問題は二つ」
 ラスティカは指を二本立てた。
「誰に、それからどうやって」
 ラスティカは指を一本ずつ折る。
「それを確かめに行くの?」
 ラスティカはゆっくりと頷いた。

 最初に訪れたのは昨日俺たちが行った『フィオレ』本店の二階だった。
「おまえたち……」
 そこにいたのは昨日ヴェーラと口論になっていた体格の良い男性だ。インヴェルノという名前をヴェーラに教えてもらっていた。
「ヴェーラさんから事情は伺いました。営業許可証の行方、知りたくはないですか?」
 ラスティカの言葉にインヴェルノさんは言おうとしていた言葉を飲み込んで、手近な椅子にどすんと腰を下ろした。
「ヴェーラが何か話したか?」
「フィオレさんが営業許可証を隠したという話だけです。あなたもフィオレさんから何かもらったんですよね」
「ああ」
 そう言うとインヴェルノさんは紙の束を机の引き出しから取り出した。
「型紙だよ」
 彼の言う通り、それは型紙だった。
「見てもいいですか?」
「ああ」
 広げると確かに型紙だ。女性もののドレスだろう。袖がなく、腰のあたりで絞られて円形にスカートが広がるようなデザインだ。
「型紙からイメージできるのか」
 俺がぱたぱたと手を動かしながら完成図を頭の中で描いていたからだろう。インヴェルノさんが驚いたように言った。
「俺も洋服を作るので……」
「そうか」
 インヴェルノさんの表情がいくらか和らいだ。
「フィオレさんがあなたにこれを渡したことに思い当たることはありますか?」
 ラスティカの質問に彼は皮肉っぽく笑って答えた。
「俺の作るデザインはいけてないって言いたいんだろ。要するに当てつけさ」
 言ってから感情的すぎたと思ったのか、彼は言葉を継いだ。
「俺は長男でさ、一番母さんに厳しく仕込まれたのも俺だと思う。美しい洋服の形を作るためには良い型紙と確かな縫製の技術が必要だ。俺は兄弟たちの中でも縫製には自信がある。だから、『フィオレ』を守るのは俺だと思ってた」
 それなのに──という言葉を彼は言わなかったけど、俺には聞こえた気がした。
「そうですか」
 ラスティカはインヴェルノさんの言葉に頷く。
「ところで、この型紙を使って服を作ったことは?」
「いや……。腹が立ってここに仕舞ったままだったよ」
「そうですか。もしこの服を仕立てるなら、どんな布がいいでしょうか?」
「そうだな……。上半身とスカートで布地を変えてもいいかもしれないな。スカートは蹴回しがたっぷり取られているから柔らかい布を使ったほうが綺麗に見えるし、上半身はパリッとした生地ですっきり見せたいな」
 いやでも……とインヴェルノさんはぶつぶつと呟く。彼の口からはいくつかのアイディアが出てきて、しまいには俺に「どれがいいと思う?」なんて尋ねてくる。
 これだけで俺は気づいてしまう。この人も洋服が好きなんだって。そう思ってラスティカの方を見ると、彼も同じことを考えているようだった。

 次に俺たちが向かったのは本店とは別の建物だった。
「ウルバーニ氏が言っていたアトリエというのはここだね」
 ヴェーラとフィオレさんが住んでいる家はあくまでプライベートなアトリエで、メゾンとしての製作場はここなのだそうだ。俺たちが面会したのはアウトゥンノさんだった。
「なんの用だ」
 インヴェルノさんとは別の感じに歓迎していないムードを出す人だ。昨日と同じく俺たちを値踏みするような目を向けてくる。ラスティカはインヴェルノさんにしたのと同じような説明をアウトゥンノさんにもした。彼はふん、と俺たちから顔を背けた。
「母様から何かもらったかって? もらったよ。布と糸だ」
 アウトゥンノさんはつまらなさそうに答える。
「現物はありますか?」
「あるよ」
 彼は棚から白い木綿の包みを持ってきた。中に入っていたのは布と糸だった。
「特別なものじゃない。うちが懇意にしている業者が作っている布と糸だ」
 布は濃紺の柔らかい生地。糸は何種類か入っていたが、布地に合わせた絹糸と、光に当てるとキラキラと光る銀の刺繍糸の量が多かった。
「別に俺は『フィオレ』を自分のものにしたいなんて思っちゃいない。けど、兄弟の中で俺のデザインが一番良い」
 彼は作業台のスケッチブックを開いた。そこにはさまざまなデザインが描かれていた。俺も自分のスケッチブックに思いついたデザインを描き留めているけれど、正直なところプロはレベルが違うと思わされるものだった。どうしたらこんなふうに独創的で魅力的な服を思いつくことができるだろう。
 デザインの中には、俺がウルバーニ氏の店で見かけたドレスもあった。
「これはあなたが描いたものですか?」
「ああ」
 アウトゥンノさんはため息のように息を吐いた。
「俺は兄さんや姉さんほど手先が器用じゃない。ただ、デザインを思いつくひらめきと、それを現実的な型紙に起こすことだけは負けなかった。『フィオレ』のデザイナーを継ぐのは俺しかいない」
 アウトゥンノさんの言葉には自負があった。デザインはそれぞれのメゾンにとって一番大事なものだ。だからこそ、彼の言うとおりフィオレさんの後継者に一番近いのは彼だったのかもしれない。
「どうしてフィオレさんはあなたにこの布と糸を渡したんだと思いますか?」
 ラスティカの問いに彼は唇を歪めるようにして嗤った。
「ろくに物を縫えない俺への当てつけだろ? 生地を見れば俺の頭の中には洋服の形がいくらでも浮かぶ。でも、それだけじゃ妄想の産物だ。結局のところ手を動かして、上手に縫えなきゃ意味がない。あの人はどっちも持ってたよ」
 悔しさを滲ませるように彼は言った。そのもどかしさが俺にもわかる。素敵な洋服を作りたいと思っても、技術がついてこなければ不恰好な仕上がりになってしまう。
 彼の言うとおりフィオレさんはデザインのセンスと技量の両方を兼ね備えていたのだろう。思い描いた通りの洋服を作れる一握りの人物。
 フィオレさんは、『フィオレ』を継ぐべき者として、弟子たちの技量に納得していなかったのだろうか。
 俺は不意に自分のことを考えた。自分ではラスティカの弟子だって名乗ってるけど、俺はどれだけラスティカの持っているものを受け継いでいるだろうか。俺は、本当にラスティカの弟子になれているんだろうか。
「クロエ?」
 ラスティカが俺に呼びかける。なんでもないよと俺は笑って誤魔化した。

 最後の一人、エスターテさんはアトリエの二階にいた。そこには十人くらいのお針子たちが作業台に向かっている。彼らの手元では、布地に美しい模様が描かれている。
「それで、なんの用?」
 作業場から出てきたエスターテさんは声を落として俺たちに尋ねた。お針子たちの集中力を切らしたくないからと、作業場の外で話そうと提案したのは彼女だった。
「ヴェーラさんから事情を聞きました」
 ラスティカが告げると彼女は深くため息をつく。
「それで? そのスキャンダルで私たちを脅すのかしら?」
 エスターテさんは神経質そうに指先を擦り合わせた。
「そんなことはしません。僕たちは営業許可証の在処を探しているんです」
「ヴェーラが頼んだの?」
「ヴェーラさんは迷っているようでした。営業許可証が見つかるのが良いのか、見つからない方が良いのか」
 エスターテさんはふっと目を作業場に向けた。
「見つからないと困るのよ。『フィオレ』が何人の職人や針子を雇用していると思う?」
 今作業場にいるだけで十人ちょっと。ここは刺繍の作業をしているようだから、他のフロアにはもっと働いている人がいるのだろう。
「『フィオレ』はもう母様だけのものじゃない。ここにいる全員のものなの。営業許可証がなくなれば、彼らにも暇を出さなければいけなくなる」
 エスターテさんは苛立ちを抑えられないというように踵を鳴らした。
「ここにいるのは私も含めて全員がプロよ。『フィオレ』がなくなっても彼らを雇いたがるメゾンはたくさんあるはず。だからこそ、一度でも手放したらもう戻ってこない。私はこの場所を守りたいの」
 第一印象よりエスターテさんは繊細な人に見えた。
「あなたはフィオレさんから何を受け取ったのですか?」
 ラスティカは他の二人と同じ質問をした。
「刺繍図案よ」
「拝見できますか?」
 エスターテさんは一度作業場に戻ると、紙の束を持ってきた。
「正直よくわからないわ。線が出鱈目に描かれているだけだもの」
 俺は図案を覗き込む。彼女の言う通り、図案は細い線が四方八方に引かれているだけだ。唯一、『フィオレ』のロゴである『F』を模した図案だけがそれらしく見える。
「フィオレさんは何か言っていましたが」
「いいえ。でもこれは当てつけよ。私はインヴェルノ兄様のようにドレスを一着縫製する力もなければアウトゥンノのように素晴らしいデザインを思いつけるわけでもない。他の針子たちに混ざって刺繍をするのが好きなだけ。母様も私に期待なんてしてなかったわ」
 刺繍は根気と繊細さが必要な仕事だ。ひと針ひと針丁寧に縫い止める。少しでも油断すれば完成系は歪んで見えてしまう。どれだけ丁寧な仕事ができるか──それはどれだけ誠実に目の前の仕事に向き合えるかということだ。卑下するようなことじゃない。ましてフィオレさんがそれを知らないとは考えにくい。
 俺は思わずラスティカの方を見た。同意するようにラスティカは小さく頷いた。
「俺は…すごいと思います。俺も刺繍をするんですけど、同じ力の強さで同じだけの縫い目で模様を作っていくのは難しいから……」
 エスターテさんは少し驚いたように俺を見た。それから力を抜くように笑った。
「ありがとう。そうね固くなりすぎないことが刺繍のコツなの」
 彼女は力の入った俺の肩をとんと叩いた。

 話を聞いていると、フィオレさんの弟子である子供たちは、みんな自分が他の人よりも劣っていると思い込んでいるようだった。兄弟同士で反発し、自分こそがフィオレさんの後継者に相応しいと言いながら、一方でどこか不安そうでもある。
 俺だったら?と考えてしまう。ラスティカの弟子は俺一人だ。でも他にもラスティカの弟子がいたら?
「自信無くなっちゃうかもなあ」
 俺より優秀で賢くて可愛い弟子がいたら、多分嫉妬する。そしてそれ以上に俺は自分のことを信じられなくなってしまうだろう。
 ラスティカは俺だけのお師匠様でいて。
 そんな俺の煩悶を他所にラスティカは顎に手をやって何かを考えているようだった。
「話を聞いた限りは、皆素晴らしい職人だと思ったのだけれど」
 ラスティカは三人の他にもメゾンの人たちと話をしていた。インヴェルノさんもアウトゥンノさんもエスターテさんも、他の職人さんたちにも慕われていた。
「フィオレさんがすごすぎるのかな」
「そうだね」
 ラスティカは頷いた。
「フィオレさんは眩しすぎる陽の光なのかもしれない。太陽は人々を温めるけれど、強すぎる光は目を焼いてしまうこともある。それに太陽が出ているうちは、空に輝いている他の星は見えなくなってしまうからね」
 俺は日が暮れかけた空を見上げた。昼間の空にも当然星は変わらずに存在する。目に見えないのは、太陽が明るすぎるせいだ。
「ところで、クロエ。フィオレさんからの贈り物で何か気づくことはないかい?」
 ラスティカに言われて俺は自分の中にあるもやもやを一旦外に追いやった。
「そうだ! 俺、思い当たるところがあるんだけど──」

 型紙、布、糸、刺繍図案。そしてビーズ。最初に気づいたのは布だった。どこかで見た色と風合いだと思って記憶を辿ると、フィオレさんに案内された星空のアトリエが浮かんだ。
「確かにそっくりだね」
 ラスティカは天井から垂れた布地を見てそう言った。
 俺たちは一度ヴェーラとフィオレさんの家に戻った。アトリエの天井に張られた布地はアウトゥンノさんがフィオレさんからもらったという布によく似ている。手触りが若干違うのは、おそらく用途が違うからだ。カーテンにはカーテンの生地、ドレスにはドレスの生地がある。この天井に張られた布は、洋服に使うには重すぎる。
 そこに気づいてしまえば残りの材料が、何を作るものなのか容易に想像ができる。刺繍図案はそれ単体で見ると意味をなさないけど、銀の糸とビーズを組み合わせれば意図がわかる。あれは星空を作るためのものだ。
 その上で、フィオレさんが望んでいたものとは──。
「ラスティカ、これって……」
 俺の言葉にラスティカは微笑んだ。
「さて、この星空に集ったみんなのために絡まった糸をほぐしに行こうか」

☆☆☆

 俺はフィオレさんの右手を取ってゆっくりと階段を上がる。ここ数日あまり体調が良くないのだとヴェーラが泣きそうな顔で教えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう」
 俺は星空のアトリエの扉を手にかけた。扉を開ける。
「まあ」
 俺たちの目の前には濃紺の美しいドレスを纏った一台のトルソーがあった。袖はなく右肩のあたりにリボンの結び目のような形でひだが寄っている。上半身の装飾はそれだけですっきりとしたデザインだ。スカートの部分は布地をたっぷりと使っていて、銀糸とビーズを使った刺繍が施されている。まるで、星空のような。
 フィオレさんはドレスをさまざまな角度から眺め、手に取り満足げに頷いた。
「良い仕上がりだわ」
 アトリエの中には俺とラスティカの他にヴェーラと三人の兄弟たちがいる。
「もう営業許可証の場所はわかったのかしら」
「ええ」
 答えたのはラスティカだった。
「このドレスに施された刺繍はこのアトリエにある星空と同じものです。天井に貼り付けているのと、スカートになっているので多少形は変わっていますが、星の位置を対照することができます。そして、この『F』の文字がある部分──」
 ラスティカは星空の一点を示した。フィオレさんは何も言わずに促す。ヴェーラが踏み台の椅子を持ってくるとそこに上って、ラスティカの示した場所に触れた。布に切れ目がある。彼女はそこに手を突っ込むと、一枚の紙を引っ張り出した。
「営業許可証だわ」
 ヴェーラは窺うようにフィオレさんを見た。
「よく見つけました」
 彼女はヴェーラと兄弟たちに向かってその言葉をかけた。それからラスティカに視線を向ける。
「私がどうしてこんなことをしたのか、あなたはもうわかっているのではなくて?」
「想像だけですよ」
「いいわ。話してちょうだい。自分で言うのは少し気恥ずかしいの」
「それではあなたの代わりに」
 ラスティカは朗々とした声で語り始めた。
「あなたは営業許可証を隠して、自分の後継ぎとなる人たちに贈り物を残した。これは、四人全員で『フィオレ』を引き継いでほしいと言うメッセージを伝えたかったからですね」
 フィオレさんはしっかりと頷いた。

 型紙、布、糸、刺繍図案、ビーズ。これらの材料と確かな職人の腕があればドレスを縫い上げることができる。ラスティカは兄弟たち、そしてヴェーラを集めると、それぞれフィオレさんから贈られたものを並べさせた。彼らは一度も自分たちが贈られたものを他の人に見せてはいなかった。
「当てつけだと思っていたからだろうな」
 インヴェルノさんはそう言った。自分の未熟さを示すために贈られた品をライバルである他の兄弟に見せたくない。そういう心情だったのだ。けれど、フィオレさんの思惑はそうでなかった。
「フィオレさんはあなたたちの才能と技量を買っているからこそ、これらの贈り物を渡したんですよ」
 ドレスを作るのには俺も手伝った。でも、正直手伝ったと言うには烏滸がましいほど俺のできることは少なかった。ヴェーラと一緒にビーズを縫い付けるのが精々で、あとは作業場を片付けたり、道具をメンテナンスしたりしていた。間近で見る職人の仕事は鮮やかで俺はほとんど見惚れていた。
「アウトゥンノさんも苦手だって言ってたけど手は速いし正確だし……」
 インヴェルノさんの縫製技術とエスターテさんの刺繍の技術が優れていたのは確かだったけれど、アウトゥンノさんも二人に比べれば一段落ちると言うだけで、十分優れた技量の持ち主だった。ドレスの右肩の意匠は彼のアレンジだ。
 この三人ならフィオレさんに並ぶことができる。そしてもしかしたら、ヴェーラが一人前になったとき、フィオレさんを超えることだって──。
 フィオレさんの技術とセンスを受け継いだ弟子たちの共作。そのドレスは、俺が今まで見てきたなかでもとびきり素敵なものだった。

☆☆☆

「長い間お世話になりました」
 結局俺たちは一週間ほどフィオレさんとヴェーラの家に滞在した。俺の言葉にフィオレさんは微笑む。
「色々とありがとう。本当に」
 ヴェーラは俺とラスティカに向かって頭を下げた。
 結局、『フィオレ』は共同代表という形でインヴェルノさん、アウトゥンノさん、エスターテさんが三人で引き継ぐことになった。ヴェーラは見習いを卒業したらそこに加わる予定だ。
 『フィオレ』を立て直すまでもうしばらくかかりそうだけど、無事オーダーメイドを再開した時には、俺の服を作ってくれると請け負ってくれている。
「クロエさん」
 フィオレさんは俺を呼ぶと俺の両手にスカーフを被せた。柔らかいレモンイエローの生地に金色の糸で刺繍がされている。
「あなたの服を仕立てられない代わりにこれをもらってちょうだい。女物だけどあなたはおしゃれだから上手に合わせてくれるでしょう」
 おしゃれな人におしゃれと言われるほど気恥ずかしいことはない。
「ありがとうございます。大事にします」
「ラスティカさん」
「はい」
「本当にありがとうございました」
「いいえ。僕があなたたちの力になりたかっただけです」
「私はあなたのおかげで大事な物を守ることができました」
 フィオレさんの言う大事なものというのは、彼女が技術と魂を与えた弟子たちが、これからも協力していく未来のことのように思える。
「また近くに来たら寄ってね」
 ヴェーラが俺たちに向かってぶんぶんと手を振る。それに応えて、俺とラスティカは箒に乗って空へと飛び上がった。

「お疲れ様、クロエ」
「うん?」
「きみもたくさん手伝っただろう?」
 こと裁縫のことになると、出番のないラスティカと違って俺は確かにこの三日間は大忙しだった。
「忙しかったけど、勉強になったな。プロの仕事をこんなに間近で見ることはそうないし」
 洋服を仕立ててもらうだけでは絶対にできなかった経験ができたのだから、俺としては最高の時間だった。一方で、仕立て屋を目指すならもっと頑張らなくっちゃという気持ちにもなる。俺は魔法が使えるけれど、自分の手で作れる以上のものを生み出すことはできない。もっと上手くなって、自分の中に浮かんだ洋服をたくさん作りたい。
「それなら良かった。またきみの服を仕立ててもらいに来なくちゃね」
「そうだね」
 立派な服を仕立ててもらうなんて分不相応だと思っていた。その気持ちがなくなったわけじゃない。でも、それ以上に間近で見た『フィオレ』の人たちの素晴らしい仕事で作られた服を着てみたいという期待の方が今は大きい。
「俺は……どれだけラスティカに近づけるかな」
 隣を飛ぶラスティカは手を伸ばせば届くところにいる。だけど、俺とラスティカの持っているものは違いすぎて、ちっとも手が届きそうじゃない。大きくて遠い彼に、俺は近づけているんだろうか。
「僕にならなくてもいいんじゃないかな。だってクロエは僕にできないことがたくさんできる」
 そう言ってラスティカは指を折って数えた。
「洋服を作ること。髪を整えること。早起き、早寝。コーヒーを入れるのが僕よりも上手。朝ごはんを作るのも。足が速くて、おしゃべりが楽しい」
「そのどれも、あんたが俺を褒めてくれたから自信になったものだよ」
 ラスティカがいなければ俺は俺のことも知らなかった。俺のお師匠様。俺に価値をくれた人。
 雲のない青空と同じ色の瞳が俺をまっすぐに見つめる。俺は執われるように見つめ返した。不意にラスティカは俺のずっと先に目を移してそれからひと言告げた。
「それなら、僕が望むのはきみが、その自信をずっと胸に抱いていてくれることかもしれない」
 ずっと。その「ずっと」の場所にラスティカはいてくれる?
 俺は本当に聞きたかったことを聞けなかった。
 俺たちはもうフィオレさんに会うことはないだろう。そう、いつか別れはやってくる。魔法使いは人間よりずっと長生きだ。それでも、俺はいつまでラスティカの弟子でいられるんだろう。
 晴れた空はどこまでも青く。薄く〈大いなる厄災〉の輪郭が見える。俺はそっと不安を胸の奥に追いやって、ラスティカの後を追って飛んだ。

☆☆☆

「おしゃれですね!」
「ありがとう。賢者様にそう言ってもらえると嬉しいな」
 今日のコーディネートは明るいクリーム色のシャツにグレイの格子柄のパンツ、同系色のジレ。タイではなくスカーフを首元に巻いてちょっとカジュアルに外している。
「自分で言うのはなんだけど、賢者様のコーディネートもいい感じだと思うんだよね」
「はい。これから行く舞台も楽しみですけど、着替えただけでわくわくしてきます」
 今日は賢者様を誘って俺とラスティカは西の国の劇場に行く予定だった。お芝居を見るのももちろん好きだけど、俺はそのためにおめかしをするのも同じくらい好きだ。別に誰も俺のことなんか見てないだろうけど、それでも特別な日のお出かけにおしゃれをすること自体がとびきり楽しい。自分の服を選ぶのもいいけど、賢者様の服を選ぶのはまた違った面白さがあって、俺は昨日からずっと興奮していた。
「クロエのスカーフの色、すごく綺麗ですね。これってクロエのお手製ですか?」
「ううん。今日の服はねスカーフも含めて俺のお気に入りのブランドの洋服なんだ」
 へえ、と賢者様は興味深げに俺の服を見た。
「良かったらお店に寄ってみる? お芝居の前に時間もありそうだし」
「本当ですか?」
 俺と賢者様が話しているとようやくラスティカがやってきた。
「待たせてしまったね。こんなに僕のことを待っていてくれるなんて、きみたちは僕の……」
「花嫁じゃない! クロエと賢者様!」
 ラスティカの魔道具を仕舞わせると、俺はラスティカの付けたスカーフの角度を少しだけ直す。
「これでばっちり」
「ありがとうクロエ」
 悔しいけれど、ラスティカがすっと立って微笑むとつい小一時間ほど前まで寝ぼけていたとは思えないほど立派な紳士になる。
「それじゃあ行こうか。さっき賢者様と『フィオレ』に寄ってから行こうって話をしてたんだけど」
「それはいいアイディアだね」
 魔法舎を出ると俺は自分の首元のスカーフを見た。スカーフは暖かい陽だまりのような色をしていて光に透かすと刺繍が輝きを放つ。

 それは、誰かを繋ぐ星のように。