キッチンで眠れずともカツ丼が作れるので(吉本ばなな『キッチン』感想)

6月に新居に引っ越した。日の当たるキッチンが気に入った家だった。

私はずっとこの家に引っ越して最初にやりたかったことがある。それは吉本ばななの『キッチン』で描かれたように台所に布団を敷いて眠ることだった。いざ料理をし始めたら布団を持ち込むのは衛生的にちょっと…という気持ちになっただろうが、新居の──それもまだ料理をしていない台所で眠ることは許されていい気がした。

と、思っていたのだが、間の悪いことに引っ越し当日に激しい腹痛に襲われた。なんとか引っ越しは終えたものの、寝室に運んでもらった布団にそのまま倒れ込むという状態だったので、結局私は台所で眠ることはなかった。

これは一生に一度の台所で眠るという夢を叶え損ねた私が、そんな悲しみのままに十数年ぶりに『キッチン』を読み返した感想だ。

おそらく初めて『キッチン』を読んだのは高校生の時だったと思う。

『キッチン』は3つの物語から構成されている。表題作の「キッチン」とその続編である「満月ーキッチン2」。そしてその2作から独立した短編の「ムーンライト・シャドウ」だ。「ムーンライト・シャドウ」は独立した物語でありながら前2作とテーマとしては密接に絡み合っている。

10代の頃の私は「ムーンライト・シャドウ」が一番好きだった。そもそも読み始めたきっかけは「活字倶楽部」という愛読した雑誌の読者投稿欄でセーラー服を着ている少年がいるという情報を目にしたからだった。趣味が分かりやすすぎる。

実は再読してちょっとがっくり来てしまったのは、当時ほど「ムーンライト・シャドウ」が今の私に響かなかったことだった。けれど、この作品は昔の私が楽しみきったと思うので、今回は「キッチン」と「満月ーキッチン2」について感想を書き残したい。

夢のキッチン

再読して一番ぐっときたのは「キッチン」の最後の段落だ。

夢のキッチン。 私はいくつもそれをもつだろう。心の中で、あるいは実際に。あるいは旅先で。ひとりで、大ぜいで、二人きりで、私の生きるすべての場所で、きっとたくさんもつだろう。

吉本ばなな『キッチン』 61ページ

ぐっときたというよりここまで読んでわんわん泣いてしまった。多分初読の時はこんなことはなかったと思う。

語り手である桜井みかげにとって台所を、キッチンを一番好きな場所だ。いつか死ぬ時も台所がいいと思っている。

好きにも種類があるとして、彼女にとってキッチンはどういう種類の好きな場所なんだろうということを考えて読んでいくと、キッチンは人間の心があらわになる場所なのかもしれないと思った。あらわになるからこそ、よく知らない人間をキッチンにあげることは普通しない。

「キッチン」の中でみかげは祖母の葬式で初めて出会った田辺雄一に誘われて彼の家に居候することになる。初めて彼の家に足を踏み入れた彼女は台所を見て、彼と彼の母親を信じて田辺家で暮らす。台所の近くにあるソファを寝床にして。

私は毛布にくるまって、今夜も台所のそばで眠ることがおかしくて笑った。しかし、孤独がなかった。私は待っていたのかもしれない。今までのことも、これからのこともしばらくだけの間、忘れられる寝床だけを待ち望んでいたのかもしれない。となりに人がいては淋しさが増すからいけない。

吉本ばなな『キッチン』 26ページ

キッチンには人間そのものが現れるけれども一方でコミュニケーションが取れるものではない。本のように、一方通行にフォローしているTwitterのように、人の息遣いを感じるけれど遠い。一番孤独を忘れられる場所だということが私にはしっくりきた。

であるならば、「夢のキッチン」とはなんだろうか。「夢のキッチン」は人の思考が、魂が感じられる場所。孤独を感じない場所。そういう場所があるから彼女は生きていける。

みかげは「きっともつだろう」と語るけれど、彼女より少し先を生きてしまった私は「もたないと生きていけないんだ」と思う。たくさん持てるかはわからないけれど、きっと彼女がそう祈るように、願うように、私たちは生きてる。

食べることが生きること

「満月ーキッチン2」で田辺家を出て、みかげは料理研究家のアシスタントとして料理を仕事にする。タイトルの通り、この作品では食べ物がたびたび登場するが、特に「満月ーキッチン2」では食べることがメインテーマとして描かれる。

わかりやすくこの物語で食べることは生きることと重なっている。「ムーンライト・シャドウ」で川が生と死の境界であるように、食べることが生の世界を定義している。「満月ーキッチン2」で母親のえり子さんを亡くした雄一はその境界に立っている。みかげは彼を生の側に取り戻すためにカツ丼を届けにいくのだ。

いくつもの昼と夜、私たちは共に食事をした。

吉本ばなな『キッチン』 135ページ

食事をすることはその行為以上に共に何かを共有して、生きていくことだ。みかげと雄一は食べる行為を通して、突然亡くなったえり子さんを思い出す。食事と結びつく思い出はとても生きている気配を感じるものだろう。

私がこの感想を書いている2021年には、家族でもなければ一緒に食事をすることができない。きっと今私の知っている誰かが死んだとして、私は生きている姿を記憶の中に描けるだろうか。私が死んだとして描いてもらえるだろうか。

人が誰かと食事をするという欲求は、生に一番近くて一番明るい姿を亡くなっても記憶の中で描いてほしいという欲求なのかもしれない。

美味しいカツ丼を作ったおじさんが一番えらい

再読していて素直に思ったのが、「でもこの話で一番えらいのってカツ丼作ったおじさんだよね?」ということである。

仕事で伊豆にきたみかげはふと見つけた店でカツ丼を食べてその美味しさに感動し、カツ丼を持ち帰り用に包んでもらって雄一の元へ向かう。これによって物語は大きく動くのだが、この美味しいカツ丼に出会わなかったらこの話はここで終わってしまう。つまるところ美味しいカツ丼に出会ったことがこの物語のターニングポイントなわけだ。

カツ丼作ったおじさんとみかげにはなんの関係もないし、おそらくこの先の人生が交わることもない。ただのカツ丼美味しいおじさんなのだが、そういう他人の作った料理でも人は感動するし、これを食べたら人間救えるかもしれないと思うのだ。

私はそういう人間の雑さというか、食事に対しての節操のなさが好きだ。愛とか情とかそんなものより美味いものが結局勝つんだよ。

『キッチン』が最初に刊行されたのは私が生まれる前。それから何十年と経ってもみかげや雄一の孤独は私の孤独であることがこの物語の魅力だと思う。けれど、変わっていくものもある。

これから先の未来、私が誰かと食事をすることはもう何度もないかもしれない。たくさんのキッチンがあればいいけれど、私のキッチンはこの自宅の白いタイルのキッチンしかないかもしれない。それでも私はきっと美味しいカツ丼を作る。知らない人の作ったカツ丼を食べる。