6章 自由への飛翔

 アリサさんの遺体を発見したのはカインとシノだった。昨日と同じように軽く体を動かそうかと外に出たところで、彼女が亡くなっているのを発見した。胸をナイフでひと突き。死んでいるのは明らかな姿だった。ナイフが刺さったままだったので出血は少ない。
 昨日は、夕食を終えるとカースン家の人たちは自室へと引き上げていった。食堂では俺たちが推理の検討をして、日付が変わることに解散した。夕食後以降にカースン家の人たちは見ていない。これまでの事件と違って、アリサさんを殺害するのは物理的に難しくはなかった。庭は密室でもなんでもないからだ。
 残ったカースン家の人たちはカーターさん、サラさん、ナッドさん、ハラルドさんの四人だけになってしまった。
「流石にもう投票をするどころじゃないですもんね」
 私はアーサーの箒に跨って空を飛んでいる。船を待たずに港町へと向かうために。
 次期当主選定の件は、アーサーが預かって日を改めることになった。クリストフさんの遺した書状には、彼が死亡した場合にアリサさんが次期当主選定を引き継いで実施するようにと書かれている。しかし、彼女も亡くなった今、当主選定の行先は宙に浮いてしまった。そして、残されたカースン家の人たちが、次期当主選定の延期に異を唱えることはなかった。むしろ、ほっとしているように見えた。
 午後には船が来るから、そこで亡くなった人たちの遺体は港町まで運ばれるだろう。それから、この殺人事件についての捜査も始まるはずだ。
「結局後味の悪い結末になってしまいました。申し訳ありません」
「アーサーが謝ることじゃないですよ」
 私は遠くなってゆく島を見下ろした。ちょうどその時だった。轟音が響いて私は思わず目を閉じ、体を縮こまらせた。
「何が起きて……!」
 近くを飛んでいたカインの焦ったような声が聞こえる。私が目を開けると眩しいくらいの赤が目に飛び込んできた。それが何を意味しているのかを理解するのに数秒かかった。
 島が燃えていた。正確には島の北側にある館が炎に包まれている。すでに建物が崩れ始めているのは、先ほどの轟音が爆発だったからだろう。
「どうして……」
 私だけではなくみんなが呆然と島を見つめていた。アーサーは旋回して、島の方へと体を向けた。それをカインが止める。
「無理だ。もう……」
 突然の爆発だったから館にいる人たちは一瞬で炎に包まれたことだろう。館の中にいたカースン家の人たちが生きているとは思えなかった。
 炎は何もかもを消し去るように、館を燃やし続けている。

 

 島が炎上していることは港からでも見えたようだ。港町に降り立つとカースン家の使用人が船を出すところだった。カインが港町に駐留している騎士団に事情を説明する。
「俺とアーサー様は事の顛末を城に報告しなくちゃならない。魔法舎に戻るのはそれからだな。第一陣が島に向かっているそうだから、調査結果を聞いて……。明日には帰れるだろう」
 調査といっても、残っているものはおそらく少ない。せいぜいカースン家の人たちが全員亡くなったことがわかるくらいだろう。それでも、城に持ち帰るための報告書を作ってもらわないといけないのだそうだ。
「それなら私も残っていいですか?」
 ブラッドリーとネロ、ヒースクリフとシノはひと足先に魔法舎へと帰ろうとしている。私も彼らと一緒に魔法舎に戻ればいいはずなのに、何だか後ろ髪を引かれるような心地で、思わずそう言った。カインは理由は聞かずに頷くと、私の分も一晩の宿を確保してくれた。
 港町で取った宿は、カースン家の客室に比べると狭く、けれど窓から吹き込む風には解放感があった。二階にある客室の窓からは港が見える。私は窓枠に肘をついて外を眺めていた。残ったものの、町の騎士団や役所に話をしに行っているカインやアーサーと違って、私には特に仕事がない。
「賢者様」
「わっ!」
 耳元で囁かれた声に私は驚いて椅子から転げ落ちた。くすくすと笑っているのはオーエンだった。
「オーエン、なんでここに……」
「こっそり見守ってるって言ったじゃない」
「そうですけど、全然姿を見せないし、事件に関与してる訳じゃないっていうから忘れて─っ!」
 無言で投げつけられた枕を思わず腕で防ぐ。正直なところ、いろんなことがありすぎて彼のことを考えている場合じゃなかったのだ。忘れられたくないのなら、もっと姿を見せてくれればよかったのに。
「孤島の旅はどうだった?」
「どうって……見ていたならわかるでしょう」
 謎だけを残して、たくさんの人が亡くなった。どうしてこうなったのか、どうしていればこの結末を防げていたのか、私は何もわからないままだ。
「本当にわからない?」
「何がですか?」
「あの島で何が起きたのか」
 問われて私は唾を飲んだ。オーエンはこの結末に至る事件の真相を知っているのだ。
「オーエンにはわかっているんですよね?」
「僕の話はしていない。おまえにわかるかって聞いてるんだよ」
 彼は色違いの瞳を俺に向けた。私はテーブルの上に置いていた賢者の書を手に取って質問を変えた。
「私にわかってほしいことですか?」
 オーエンは答えず、不機嫌そうにそっぽを向いた。それを私は肯定と受け取る。
 賢者の書を開いた。そこにはこの事件のことだけじゃない、今までこの世界で出会ってきた人間、魔法使いのことが綴られている。
 私は名探偵じゃない。けれど、真実を明らかにすることが、そこにいる誰かを理解することだとするならば、それは今までこの世界で私がやってきたことそのものだ。
 自分の書いた記録を頼りにこの事件を回想する。違和感を拾い集めていく。求められてなお、私は世界の真実を解き明かすだけの自信はない。
 それでも、あなたの真実を知りたい。それが悲しいことであったとしても。
 しばらく私は考え込んでいた。考えがまとまった時には、もう窓の外で赤く染まった夕日が海へと沈みゆくところだった。空の色を塗り替える、鮮烈な赤と辿り着いた結論に鼓動が速くなる。緊張と僅かな興奮が私の背中を押す。
「オーエン」
 オーエンは退屈そうにベッドの上で砂糖菓子を齧っていた。
「何?」
「彼女に、会えますか?」
 私の言葉を聞いて、オーエンは目を細めて頷いた。

 

 日が落ちても寒くない季節だったことは幸運だった。明るい光を放つ灯台の足元で私は待っている。ここから旅立つ誰かを。
 現れた人影に私は声をかけた。驚かせるだろう。私はオーエンの魔法ですっかり気配を消していた。彼女も私に気づく様子はなかった。
「こんばんは、初めまして」
 どちらの挨拶が良いだろうかと迷って両方を一息で告げた。彼女ははっとした顔をで私を見た。
「私は真木晶。あなたにお会いしたくて待っていました。─マリー・カースンさん」
 彼女は驚きの後、優雅に腰を折った。肩から黒髪が滑り落ちる。逃げようとも、何かをこちらに訴えようともしなかった。
「初めまして賢者様。ご挨拶が遅れました。マリー・カースンです」
 十代半ばに見える少女だった。紫色の瞳はアリサさんと同じように意志の強そうな光を放っている。見た目の年齢はかなり離れているのに、よく似ているという印象を受けた。
「カースン家の人たちを殺したのはあなたですね」
「はい」
 彼女は静かに肯定した。それから灯台の入り口にある階段を指した。
「夜明けまでまだあります。あなたが気づいた真実を私に教えてくれますか」
 階段に腰を下ろした彼女の隣に私も座った。何から話すべきか、私は少し迷ってから事件を最初から追っていくことにした。
「この事件の始まりは、クリストフ・カースン伯爵が、その地位や領地を子供達の誰かに譲る必要に迫られたことでした。中央の国の貴族や王族からの強い要請を、クリストフさんは飲まざるを得なくなった。でも、彼は言われるがままに当主の地位を子供達に受け渡すつもりもなかった」
 マリーさんは言葉を挟まず頷いた。
「彼は投票によって次期当主を選ぶことにして、子供たちと私たちを島に招いた。けれど、クリストフさんは実権を子供達に譲るつもりはなかった。あくまで正当な手段で子供達に当主の地位が引き継がれたことを確認した上で、彼は次の当主のことも彼の手の内で支配しようと考えていたのだと思います。そして、あなたはこの状況を利用してあなたの目的をやり遂げることにした」
 私は一度言葉を切る。海から吹く潮風が私の頬を撫でた。
「最初の温室の事件。あなたはハラルドさんとちょっとした悪戯を仕掛けることにした。私たちやカースン家の人たちを驚かすために温室の二階部分にあるオブジェを落とすことにしたんです」
 温室の事件は概ねあの島で私たちが推理した通りだろう。オブジェの下にボールを挟み込むことで、少女の手でも勢いをつけて押せば落下させることができる。
「あなたは服に血糊をつけて、温室で叫び声を上げる。そうすればあなたを心配した人たちが温室にやってくる。そうしたら二階からオブジェを落とす。そういう手筈だったはずです」
「はい。私たちのことなんて眼中にもない大人を揶揄ってやろう、そうハラルドを誘いました」
「しかし、あなたには別の思惑があった。それはマリー・カースンを殺すことです」
 ハラルドさんはまさか妹が死んでいるなんて思わなかっただろう。計画ではオブジェを落とすために、温室の二階にいるはずだったのだから。
「叫び声をあげ、ガラス越しに姿を見せたあなたは温室の二階からオブジェを落としました。一階部分に用意した、あなたと同じ服を着せた少女の遺体に向かって」
 遺体は顔が潰れていて、個人が特定できる状態ではなかった。その上ほとんどの兄弟たちは彼女と会ったことはない。髪と衣服からマリーさんと誤認させることは十分可能だった。その上、あの島に十代の少女はマリーさんしかいないという思い込みも、私たちの認識を誤らせる大きな要因になっていた。
「遺体があなたでないと気づいていたのは、クリストフさん、アリサさんの二人です」
 私は一度言葉を切った。カースン家の秘密に手をかける。
「なぜなら、あなたは魔法使いだから。それを知っていた二人は、遺体を見てあなたでないとすぐにわかったはずです」
 魔法使いが死ぬと石になる。だから、魔法使いの遺体とは死んでいないことの証明にもなる。息のないオーエンの体を見つけた時に覚える不思議な安堵を私は思い出した。驚いた後で、理性が彼は死んでいないと教えてくれるのだ。
「ご明察です。そして、もうお気づきと思いますが、私はカースン家の末の娘ではありません。アリサの三歳上の姉。カースン家の長女です。あなたのおっしゃったとおり、父とアリサだけがそれを知っています」
 マリーさんは一度瞼を閉じて、それから真っ直ぐに私を見た。
「どこで気づかれましたか?」
「ずっと違和感がありました」
 温室で見た遺体に感じる違和感を先ほどまで説明できずにいた。けれど、宿でオーエンに枕を投げつけられた時にふっと閃くものがあった。
「オブジェは体の前に落ちてきました。普通何かが顔の正面に降ってきたら、反射的に腕で払い除けようとするものです。それなのに遺体の腕は体の横にあって、傷もなかった」
 だからオブジェが落下したとき、彼女はすでに亡くなっていたのではないかと考えた。
「そこまでして死んだことにしたい理由はなんだろうかと考えて辿り着いたのがこの答えです。あなたが死ななければならなかったのは私たちが島にやってきたから。賢者の魔法使いと顔を合わせたら、あなたが魔法使いだとわかってしまうからです」
 強い力を持った魔法使いは同族を見抜くことができる。魔法使いであることを人間の兄弟たちに隠していたとしても、賢者の魔法使いたちがやってきたら一発で明らかになってしまう。だから彼女は私たちに姿を見せる前に死ぬ必要があった。
「その通りです。元々これは父の計画でした。次期当主の選定に際して、私が死んだ時に他の兄弟がどういう反応を見せるかを知りたいという。もちろん、あなたたちに私が魔法使いだと知られぬまま。けれど、それを私たちは利用させてもらいました」
「あなたとアリサさん」
「ええ」
「亡くなった方は?」
「私が死んだことを偽装するためにはどうしても死体が必要でした。だから、この街の少女が足を滑らせて海に落ちて亡くなったところを私が回収しました」
 彼女は海に目を向けるのにつられて、私も水面に目を落とす。黒くそこの見えない海は、まるで闇そのもののようだった。
「かわいそうなことをしました。殺したわけではないですが、助けなかったのだから殺したのと同罪でしょう」
 行方不明者を探すポスターを思い出した。ある日姿を消した少女は、もう戻ってはこない。
 私は話を先に進める。
「次にクリストフさんの殺害です。彼を殺したのはアリサさんですよね?」
 マリーさんは頷いた。
「マリーさんの遺体が見つかった後、アリサさんはクリストフさんとバルコニーで話をする算段をつけます。もしかしたら今までも隣の部屋同士、バルコニーに出て話をする機会があったのかもしれません。彼女はバルコニーでクリストフさんと話をし、隙を見て─おそらく銃で殺害した」
 島で俺が披露した推理と変わらない。隣の部屋にいた彼女にしかできない殺害方法だ。
「バルコニーに残った石や衣服は何か長い棒のようなものでバルコニーの外に─海に落としてしまえば発見することはできません」
 棒は部屋に置いてあったのかもしれないし、彼女の杖に長く伸びるような仕掛けがなされていたのかもしれない。どちらにせよ部屋の捜索をしない限り発見することはできない。
「あとはあらかじめ用意しておいたマナ石をクリストフさんのベッドの上に置くことで、彼が室内で死んだように偽装すれば完了です」
 マリーさんは手を叩いた。パチパチと乾いた音が響く。私の言葉を聞いているのは目の前にいる彼女と、おそらくすぐそばにいるオーエンしかいない。
「ここで一つ疑問が残ります。どうしてアリサさんがクリストフさんを殺したんでしょうか? 他の兄弟から死んだと思われているあなたは自由に動くことができる。魔法を使わなくても、アリサさんよりずっと容易く殺すことができたのだと思います」
「そうですね。私が父を殺すのはそれほど難しくなかったと思います」
 私は緊張で震える手をぎゅっと握った。マリーさんは目をすがめて私の様子を窺っていた。
「けれど、あなたにはクリストフさんを殺すことができなかった。できないようになっていた」
 これから告げることが私は悲しくて、恐ろしかった。彼女が長い間縛られ、裏切られてきたものそのものだからだ。
「あなたはクリストフさんの意に沿わないことはできない。そういう約束を交わしたのではないですか。あなたの望まない形で」
 魔法使いは約束を破れば魔力を失ってしまう。それを知らぬまま結んだ約束は、呪いのようなものでもあるだろう。
「賢者様はなんでもご存じですね」
 彼女は悲しそうに笑った。

 

「父は私にとって師でもありました。この島で生まれ育った私に魔法のことを教えてくれるのは父だけでしたから」
 マリーさんは遠い昔を懐かしむように語る。
「父と母と妹、それに使用人たち。私は家族のことを愛していました。島の外では魔法使いや魔女に対する偏見も強いと聞いていたので、島の中で同年代の子供から隔絶されて暮らすことにも疑問はありませんでした。この生活が変わっていったのは、母が亡くなってからです」
「お母様?」
「確か私が十八か……それくらいの年齢の頃です。アリサが島の外の学校に行くことになったのとちょうど同じ年でした。私はこの島での守られた穏やかな暮らしに満足していましたが、父も私以上にここでの変わらない暮らしを望んでいたのかもしれません。アリサは島の外での暮らしが性に合っていたし、私は父よりも明らかに魔力が強かった。妻が旅立ち、娘もいつかは手の中を離れていくだろう。そういう現実に耐えられなかったのだと思います。私は父に請われて約束をしました」
 きっと彼女はクリストフさんを励ましたかったのだろう。喜ばせたかったのだろう。
「父がなぜ約束のことを教えてくれなかったのか、今でもわかりません。こうなることを予期して黙っていたのかもしれないし、特に深い意味はなかったのかもしれません。魔法使いが約束をしてはいけないと知ったのは、島を出たアリサに聞いたのが初めてです」
 彼女は大きく息を吐いた。
「さっさと約束を破ってアリサのように島の外で人間として暮らせばよかったのかもしれません。でも、その時の私は父のことを決定的に嫌いになることも、魔法が使えない自分になることも選べませんでした」
「それから長い間、あなたは島で暮らしてきたんですか?」
「ほとんどは。父が再婚して、カーターとサラが生まれました。私は姉として、ある時からは妹として暮らし、彼らが島を離れる時には私の存在を記憶から消しました。記憶操作は私の最も得意な魔法です」
「クリストフさんに命じられて?」
「そうです。私は父に乞われて魔法で家族や使用人たちの記憶を操作し続けました。父は私とアリサ、私たちの母と過ごした日常の再現を求めているようでした。最初は概ね上手く行きました。でも子供たちも妻もいつかは彼の元を去ってしまう」
 カーターさんとサラさんも島を出て行った。二人のお母様もその後亡くなったという。マリーさんだけが島に残されたまま、家族の形が繰り返される。
「そしてタリンさんとナッドさん、ハラルドさんにも同じように魔法で記憶を操作したんですね」
「タリンとナッドは島を離れるタイミングで。ハラルドも二人の記憶と整合性を取るために姉の記憶は一度消しています」
「ナッドさんは昔お姉さんに魔法を見せてもらったことがあると言ってました」
「あれは失敗でした。兄弟たちに魔法使いであることは隠していましたが、ナッドの前で魔法を使ってしまったことがあって……。思いのほか喜んでもらえて嬉しかった。だからこっそり何度か見せたことがあります。その時の印象が強かったからでしょうか、思った通りに記憶を消すことができなかった」
 だからナッドさんはずっと自分の記憶が改竄されていることに疑いを抱いていた。魔法使いへの憎悪につながるくらいに。
「事件に話を戻しましょう」
 マリーさんは階段に座り直す。固いブロックの階段は長い間座るのには向いていない。けれど、もう話すべきことは残り少なかった。
「タリンさんの事件は、何か仕掛けがあったわけじゃありません。あなたは窓から侵入して、タリンさんを絞殺した。絞殺するのには、現場に痕跡が残らないような魔法を使っていたのかもしれません。とにかく、それだけのことです」
「ええ。窓は開いていました。そうでなければ窓越しに殺害して、完璧な密室になっていたでしょう」
 魔法が使えるのなら、侵入することも、窓の外から殺害することも難なくできる。私たちが考えたように、鍵を入れ替えたり、部屋の外から彼を殺す仕掛けを作る必要はない。
「アリサさんの殺害に関しては、あの島にいた人なら誰にでも犯行は可能です。あなたにも」
「そうですね」
 だから、謎はただ一つ。なぜ彼女が父親だけではなく、兄弟を全員殺す必要があったのかだ。私は、最後の謎に手をかける。
「あなたがクリストフさんと交わした約束は、正確に言うならば、カースン家当主の意に従うことだったのではないですか?」
 だから、彼女はクリストフさんを殺せなかった。だから、彼女は当主不在の間だけは自由になれた。
 そして、これからも自由になるためには、当主がいないうちに、当主になり得る人間全てを殺す必要があった。
 彼女は私の回答を承認するように、恭しく頭を下げた。

 

「アリサは正確な約束の内容を知りません。あくまで私が交わした約束は、父への服従だと思っていました。だから、私とアリサの計画は父を殺すところまでです。その先は、私一人で計画し、成し遂げました」
 彼女は晴れやかな顔をしていた。いつの間にか空がほんのりと明るみを帯びている。
「元々はアリサに父を殺してもらい、その後に館を爆破するつもりで仕掛けをしていました。けれど、賢者の魔法使いの皆様が招待されたと知り、まずはあなたたちを島から追い出す必要がありました。私よりも魔力の強い魔法使いが来た場合、計画が見抜かれる可能性があったからです」
 当主選定を延期させ、カースン家当主が不在の状態で私たちを島から追い出すために、彼女は当主の有力候補であるタリンさんとアリサさんを殺害した。そして、私たちが島を離れたタイミングで館に火をつけたのだろう。
「カースン家当主がいなければ、私が直接手を下すことができます。あの島にいたクリストフ・カースンの子供たちがすべて死んでしまえば、カースン家は後を継ぐ人間がいません。兄弟の子供たちは祖父であるクリストフ・カースンから直接領主の地位を継承する権利がないのです。貴族の中では後づけで養子縁組の手続きをして相続させる例もありますが、今回は承認されないでしょう。カースン家が断絶したことは中央の国の一部貴族にとっては都合が良い。他の貴族に領地が分割されて終わるはずです」
 ことの始まりは魔法使いであるクリストフさんを、領主の座から引き摺り下ろしたいという貴族や王族がいるという話からだった。カースン家が断絶することで得をする人がいるのなら、あえてカースン家を存続させようと動くはずがない。
「こういった政治工作をしてくれていたのがアリサでした。でも、父を殺しただけでは、次期カースン家の当主は自動的にアリサになるか、父が書面で残した誰かになります。私は当主不在の期間を作るために、父に投票による当主選定を提案しました。私にとって誤算だったのは、賢者の魔法使いの皆様まで呼び寄せたことでしたが」
「アリサさんを当主にするという選択肢はなかったんですか?」
 マリーさんは立ち上がると首を振った。
「父が死んだあと、当主選定の続行をアリサが強く訴えたのは、自分が当主になって兄弟たちを父の作った檻から解き放とうと思っていたからでしょう。カースン家当主は魅力的な地位ではありますが、父から離れて生活している子供たちにとって決して必要なものではなく、むしろ不要な争いの火種になりかねない。アリサは思慮深く、高潔でした。だから、私もあの子のことは信頼しています。でも、もう長くはない。人間の寿命は短すぎる。あの子の子供が、孫が、同じように私を扱ってくれるとは限らないでしょう」
 マリーさんの約束はカースン家が存在する限り、残り続ける。それは人間である私には想像できないくらい重い枷だ。
「だから私は妹のことも殺しました。あの子が父を殺した拳銃は、結婚するときに私があげたものです。『夫に浮気されたら殺すための武器をちょうだいよ』なんて冗談めかして私に頼んできました。だから、消音と必中の加護をかけた拳銃をプレゼントして……。でも、あの時からあの子が殺したい相手は父しかいなかったのね。もう……四十年以上前の話」
 アリサさんはマリーさんに悟らせずに父親を殺すための武器を用意した。いつかマリーさんを解放するために。
 彼女の声はわずかに震えていた。押し込めていた感情が溢れるのを止めるように彼女は一度、スカートを右手で握った。
「今まではこうする踏ん切りがつきませんでした。私はみんな大好きだったから。愛しい妹と弟。勝手に記憶を書き換えて、私は父と同罪だけど、それでも好きだったのよ。でも、ある日、私の部屋の窓に鳥が止まった」
 美しい鳥だった、とマリーさんは夢を見るように呟いた。赤い尾羽を持った白い鳥。私は彼女の指先にその鳥が止まっているところを想像した。
「私の部屋が気に入ったのか、私が与えた餌が気に入ったのか。多分両方でしょう。毎日来るものだから、私はその鳥を鳥籠に入れようとした。そうしたら─空に向かって飛んでいってしまって、それきりもう二度と戻ってはこなかった」
 彼女は空を見上げた。紺色のインクを薄く広げた空にはまだ夜の気配が残っている。
「その時、私も空に向かって飛んでいってしまいたいと思った。私は自由になりたかった。だから、全員殺しました」
 彼女の瞳は濡れていて、それでもなお顔を上げて私と対峙している。彼女の真実を私は暴き立てた。だから、彼女の痛みも悲しみも後悔も私は受け止めないといけない、目を背けずに、私も立ち上がって彼女をまっすぐに見つめた。
「私を告発しますか?」
 その言葉に私はゆっくりと首を振った。
「私の推理に証拠はありません。それに私が止めてもあなたはこのまま飛び去っていくでしょう」
「賢者であるあなたは、賢者の魔法使いに命じることができるのでは? 私を捕らえろって」
 私は苦笑いを浮かべた。私の言うことを聞いてくれる魔法使いばかりでは全然ない。
「そうできたら楽なんですけどね。─いたっ」
 何かに髪を引っ張られた。例えば今ここにいる彼は私の言うことなんてちっとも聞いてくれない。私はそれで良かった。私の言うことに逆らえないんだとしたら、友達になるのはちょっと難しいから。
 マリーさんは私を見て笑っていた。
「さようなら。賢者様。また、どこかで」
「いってらっしゃい。マリーさん。お気をつけて」
 彼女は箒を手にすると夜と朝の境目の空へと飛んでいった。鳥籠から放たれた鳥のように高く、飛んでいく。

 

「ありがとうございました」
 私は隣にいるはずの、姿を見せないオーエンに告げた。
「別に」
 声がしてから彼の姿が視認できるようになった。
「オーエンはマリーさんのことを知っていたんですか?」
 彼はカースン伯爵に招かれた話を聞きつけて、強引についてきた。あの時から彼女のことを知っていたんじゃないのだろうか。
「噂だけね。父親に島に閉じ込められている魔女の話を聞いたことがあったから。哀れな姿を見てやりたくなっただけだよ」
 オーエンはひっそりとことの成り行きを見守り続けていた。「見てやりたくなっただけ」でそこまでできるのだろうか。むしろ彼女が飛び立つこの瞬間まで目を離さないでいることが、私には祈りのようなものにさえ思える。
 港にはぽつぽつと人影が見えるようになってきた。暖かな金の光が港に浮かぶ船の形を照らしている。
「宿に戻りましょうか。少しは眠れるかな」
 長い話をしてくたくただったけれど、あまり眠くはなかった。長い物語を読み終えたような心地がする。
「賢者様は、自由になるためならどれだけ殺しても許されると思う?」
 オーエンの問いに私は顔を上げた。
「あの魔女は七人殺した。溺れ死ぬのを助けなかったのを含めれば八人。それでも賢者様は彼女を留めて罪を償わせようって思ってなかった」
「思ってなかった訳じゃないですよ」
 自分がどうするべきか悩みはした。この世界でだって殺人は重罪だ。証拠がないとは言ったものの、一家の中で一人生き残った彼女は十分容疑者として捜査の対象になるだろう。
「オーエンや他の賢者の魔法使いたちが同じことをした時に、私は同じように黙って見送ったと思います。正しくないとわかっていても、友達には自由に生きてほしいと祈ってしまうから」
 私には望まない約束を交わした友達がいる。逃れようと思っても、情を捨てきれずに持て余している友達もいる。約束をして囚われることを良しとした友達もいる。
 マリーさんは私の友達に─仲間たちによく似ている。だから、いつかの私がそうするように、彼女のことも止めることはできなかった。
「百人、二百人死んでも同じことが言える? あの館みたいに大勢の人が住んでいる街が一つ吹き飛んでも?」
「わかりません。でも、自由になるためとはいえたくさんの人が死んだら、その誰かも傷ついているんじゃないでしょうか」
 少なくともマリーさんは傷ついて見えた。こういう手段でしか望むものを得られなかったことが、私は悲しいと思う。
「きっと、悲しくて恐ろしくてたまらないと思うんです。だから、私は側にいたいです。眠れぬ夜に隣で一緒に星を数えるために。それからどうやって罪を償えるのか考えます。一緒に」
「馬鹿みたい」
 オーエンは私に背を向けて小さく呟いた。
 馬鹿でもくだらなくても正しくなくても、これは今の私に出せるただひとつの答えだ。