白亜の海で息を継ぐ - 1/8

プロローグ

 躊躇った数秒間って死んでいるのと同じだ。
 奪いたいから奪う。殺したいから殺す。己の意志を通すだけの力を持つことが北の魔法使いにとって生きるということだ。
 だからオーエンは挑まなければならない。勝たなくてはいけない。
 それこそ──永遠の死すら遠い彼が生きるということだから。

 

 むかつく。
 オーエンは日増しに強くなる日差しも、魔法舎に届く任務も、それに無理やり駆り出されることも──全部にむかついていた。
 端的に言えば機嫌が悪く、そういう日は魔法舎の外でぶらぶらと過ごすか、もしくはキッチンでネロに大量の甘いものを強請っては、部屋でそれを食べ尽くすことが多い。今日は後者だ、と決める。魔法で寒さや暑さをコントロールすることはオーエンにとって難しいことではない。それでもきらきらしい太陽はオーエンの気分には眩しすぎて外に出る気にはなれなかった。
 だから、甘いものをせがみに行ったキッチンで、オズに遭遇するなんて想定外の最悪というより他ない。
「うわ……最悪」
 キッチンではオズとアーサー、それにリケとミチルがいた。四人は──少なくともオズ以外の三人は、わかりやすく顔に笑みを浮かべて談笑している。オズもそれに合わせて時折頷いていた。その顔がオーエンの知っているものよりもずっと穏やかで腑抜けているのが、オーエンの気分をさらに悪化させた。
 キッチンには甘い香りが漂っている。
「オーエン」
 最初にオーエンに目線をやったのはオズだったが、彼は何も言わない。代わりにリケが名前を呼んだ。
「みなでパンケーキを作っているのだ。何か用事だったか?」
 オーエンに気づいたアーサーが笑みの形を保ったままオーエンに尋ねる。オーエンは不機嫌な顔に一層の不機嫌を載せた。
「おやつが欲しいのですか? もう少し待てばパンケーキが焼き上がるのでオーエンに分けてあげてもいいですよ」
 リケは得意そうに泡立て器とボールを抱えている。ミチルだけが緊張の面持ちを浮かべていた。
「そんなものいるわけないだろ」
 言い捨ててオーエンは踵を返した。
 むかつく。
 オズやミスラといった油断ならない魔法使いたちの気配がするこの魔法舎も、自分を従えようとする双子や賢者も、何もかもが苛々する。そう、賢者だ。彼がやってくる前はもっと自由だった。それなのにここ最近は息が詰まる。
「オーエン」
 自室に戻ろうとしたところで、さらに最悪のことが起きた。ミスラが階段の踊り場で体を丸めていたのだ。
「何してるんだよ」
「日向にいると眠くなると聞いたので」
 そう言ってミスラは光が作った白い丸を指差す。確かに踊り場は採光用の天窓から差し込む陽の光で満ちていた。
 オーエンが舌打ちを一つしてその場を去ろうとしたそのとき、彼の頭にいいアイディアが浮かんだ。
「ミチルがオズと一緒にいるよ」
 オーエンの口から出てきた名前にミスラがぴくりと表情を動かした。
「何をしてました?」
「キッチンでパンケーキ焼いてた」
「はあ」
 ミスラは思案する顔で上半身を起こした。
「オズと一緒にしておいていていいわけ」
「よくはないです。でもパンケーキを焼いているんでしょう?」
「今はね」
 今、という言葉にオーエンはアクセントを置いた。
「おまえ南の兄弟が大事なんだろ?」
「大事じゃありません。死んだら困るだけです」
「それが──」
 大事ってことじゃないのか。そう言いかけてオーエンは口を噤んだ。それを口にするのはきっと自分らしくない。
「オズがミチルを言いなりにしたら困るだろ」
「困りますね。何よりむかつきます」
「それにもう夕方だよ。今に日が落ちる」
 ミスラが舌先で唇を舐めた。オーエンの意図通りに彼はこの後の行動を決める。
「殺りましょうか」
「僕が手伝ってあげる」
「いりませんけど、邪魔をしないならいてもいいです」
 腹の立つ物言いだったが、オーエンはぐっと堪えた。どうせこれからいくらでも憂さ晴らしはできるのだ。

 風圧が魔法舎の窓ガラスを一様に割った。キッチンの壁は崩れ、崩落した壁が花壇の花を押し潰す。
「僕も一緒に吹き飛ばすなよ」
 オーエンはミスラに対して文句を言う。コンロも何もかも吹き飛んでキッチンとしての用を為さなくなった場所にオズが立っていた。彼が庇うように立つ後ろ側にはアーサーとリケとミチルがいて、三人とも何が起こったのか理解できていないようだった。
「何をする気だ」
 オズは問いただすと同時にキッチンだった部屋から外へ出た。ミスラとオーエンの方に。
「本当にムカつくな」
 ミスラはため息をつくみたいに呪文を唱えた。
「《アルシム》」
 オズの足元を炎が絡め取ろうとする。オズは取り出した魔道具の杖をとん、と一つ叩く。炎は空気を失ったように消え去った。
「何事じゃ」
 キッチン本来の入り口からこちらを見ているのはスノウとホワイトだ。おそらくは物音を聞きつけてやってきたのだろう。
「ミスラ、オーエン。変な気を起こすでない」
「なんで僕たちがおまえの言うことを聞かないといけないの」
 オーエンはホワイトに向かってぴしゃりと言い放つと、魔力を練り上げた。精霊たちがざわめき立って周りに集まってくる。このうるさいようなざわめきがオーエンは好きだ。
「《クアーレ・モリト》」
 研ぎ澄まされた氷の刃がオズを四方から狙う。
「《ヴォクスノク》」
 オズによってオーエンの魔法が弾かれると、その余波で魔法舎が大きく揺れた。
「スノウ、ホワイト。アーサーたちを頼む」
「『頼む』ではない! もう少し気を使えないのかの」
「このままだと魔法舎が崩落しかねん」
 スノウとホワイトは若い魔法使いたちを避難させながら口々に文句を言った。オズはむっとした顔をするが、反論はしない。
「《ヴォクスノク》」
「《アルシム》」
 雷はミスラのいた場所を正確に貫いた。寸前にミスラは空間の扉で数メートル先に退避する。
「ここが崩れて何が悪いんです。あなた、建物に興味ありましたっけ」
 ミスラの言う通りだとオーエンは思う。街を人を、魔法使いを、散々焼いてきたこの男が、こんな魔法舎という建物一つに何の思い入れがあろうか。それとも、建物の中にいる誰かにそれほど心を寄せているのか。どちらにしても馬鹿馬鹿しい。
「《クーレ・メミニ》」
 オーエンは魔道具のトランクからケルベロスを解放した。建物の中でちまちま戦うよりはこちらの方が性に合ってる。
 オズは静かに息を一つ吐くと杖を掲げた。
「《ヴォクスノク》」
 爆発が起こった。落雷というものは普通空からやってくるものだ。しかし、その雷撃はただそこに、音よりも速く起こった。光の速さで与えられた攻撃を防ぐことはできない。
「はっ。やれるじゃないですか」
 ミスラは雷を空間の扉で受け流した。自らが回避していたのでは間に合わないが、受けるのなら間に合う。ミスラから十歩ほど離れた場所を雷は焼き、敷地内に植えられた木が炎を纏っていた。
 オーエンは左腕にまともに攻撃を食らっていた。吹き飛ばされた腕は蒸発して存在していない。それでも腕一本で済んだのは、オズの苛烈な攻撃が彼らのいる場所を点で攻撃したからだ。オズが容赦しなければ、この魔法舎ごと消し去ることは容易い。オーエンは痛みを無視するように血が出るほどの強さで唇を噛み、それから呪文を口にした。声を出すだけで、頭が真っ白になるような痛みが襲う。
「《クアーレ・モリト》」
 オズの足元を黒い霧のようなものが襲う。同時にケルベロスが彼を食いちぎろうと大きく顎を開いた。
「《ヴォクスノク》」
 オズの攻撃には工夫も何もなかった。攻撃を全て押し流すだけの力の奔流。その圧力は風圧のようにも過度にかけられた重力のようにもオーエンには感じられた。自分の方に吹き飛ばされたケルベロスをトランクの中に押し込むが、放たれた魔法の威力は弱まらずオーエンの体にまともに当たる。
 ミスラの魔法が爆ぜるのがオーエンの視界の端に見えた。目眩しとして使われたのは納得いかないが、結局こうして力に力を重ねて押すしかない。次の一手のために呪文を唱えようとして、声が出ないことに気づいた。
 痛みはあまり感じなかった。ただ、体が動かず息ができない。口から出てくるのは、血のような何かだった。息ができないせいで体の先が急速に冷えていくのを感じる。
 だめかも、と思うと同時に意識が遠くなった。最後にチカっと稲妻が走るのが、瞼越しに見えた。

§

 傾いた夕陽の赤が眩しい。目が痛いなと思っていたら、不意に視界に影が落ちた。こういうときに会いたくない方の顔だ。
「オーエン」
 その声にオーエンは乾いた血で張り付いた唇をちょっと歪ませた。息はできるようになったけれど、上手く声が出ない。カインは地面に転がったオーエンを上から見下ろしている。心配するように、眉を寄せてこちらを窺っていた。オーエンはゲホゲホと咳き込みながら血の混じった唾を吐いて、ようやく答えた。
「おはよう」
 斜に構えて嘯いた。時刻はもう夕方を過ぎて、空のてっぺんには闇が迫っている。それを聞いたカインは不思議そうな顔をした。
「おはよ……う? それ、大丈夫か?」
「別に」
 辺りは静かだった。オーエンはオズと戦っていたところからだいぶ離れたところに倒れていた。ここまで吹き飛ばされたらしい。魔法舎の敷地には花壇や生垣が並べられているが、オーエンはその一つに叩きつけられたようだ。横を見ると、潰れた花びらが目に入った。
 生き返ってしまえば、体が血液やら何やらで汚れていることや、血の味が広がる口の中が気持ち悪いだけでもう痛みもない。ここにあるのは傷のない、まっさらな体。
「《クーレ・メミニ》」
 魔法で衣服を整えて体についた汚れも落とす。
「それで、騎士様は何しに来たの? オズに僕の死体でも探して来いって?」
「違うよ。スノウ様とホワイト様だ」
 その名前を聞いてオーエンはものすごく嫌そうな顔をした。
「魔法舎をちゃんと直せってさ」
「嫌だ」
 オーエンは即答した。魔法舎の修復なんて、そんなことは絶対にしてやらない。第一、魔法舎の壁を吹き飛ばしたのはミスラで、さらに大きく傷付けたのはオズだ。まあ、オーエンも気にせず魔法は放ったが。
 自分とカイン以外の気配が近づいてくるのに気づいて、オーエンはカインに合図を送った。人差し指を唇の前に立てる。カインは「ん?」という顔をして、それから口を閉じて気配を消す。すると、パタパタと軽い小走りの足音が聞こえてきた。
「オーエン、いますか?」
 賢者の声だ。カインはオーエンの方を見たが、オーエンは首を振った。賢者が去るまで二人はじっと黙っていた。しばらくすると彼は諦めたように、足音を立てて離れていく。
「おまえ……」
 カインはバツの悪そうな顔をした。賢者がオーエンを探していたのに、成り行きで彼と一緒に隠れてしまった。カインにしてみれば不本意なことだろう。
 ほとぼりを冷ますまでしばらく留守にしようとオーエンは決め込んだ。双子もオズもうるさいが、魔法使いの常でしばらく経つとこういうことはうやむやになる。オーエンは帽子を被り直すと、にやと口の端を吊り上げる。良いこと悪いことを思いついた。
「騎士様。昨日僕を食事に誘ってくれたでしょう? 今夜なら食事でもなんでも行くけど」
 カインはオーエンをよく食事に誘ってくる。オーエンが頷くのは数回に一回がせいぜいだ。昨日は気分が乗らなかったからすげなく断った。
「おまえは……」
 カインは少し戸惑った顔をした。スノウもホワイトも賢者も、オーエンを探している。魔法舎の修復を手伝わせようとしているのだ。しかし、彼の目の前のオーエンは、そんな面倒事をやらせようとする奴らのいる魔法舎からしばし逃走を決め込むつもり。さて、このお優しい騎士様はどっちを選ぶんだろう。オーエンは口元の笑みを深めた。
「店は俺が決めていいのか?」
 カインはオーエンに手を差し出した。カインの返答の意味を掴み損ねたオーエンは、思わずしがみつくようにその手を取った。カインによって体がぐいっと上に引っ張られる。
「双子や賢者様を裏切っていいわけ?」
「別にオーエンを探せって直接頼まれたわけじゃない。スノウ様とホワイト様は文句を言ってたけど、魔法舎はオズがほとんど直したよ。──この辺はまだみたいだけどさ」
 オーエンが倒れていた花壇はめちゃくちゃのままだ。
「ミスラもルチルとミチルに怒られて片付けを手伝ってたよ。でも……普通は喧嘩した奴とすぐに顔は合わせたくないだろ」
 喧嘩、という言葉に丸められてオーエンはむっとした気持ちがないでもなかったが、結局何も言わなかった。カインは引っ張り上げた時に掴んだ手を緩めてはいたが離さない。
「……ミスラは馬鹿だから」
「素直だよな」
 カインは肯定的に言い換えるとオーエンの手を引いた。
「ほとぼりが覚めたらこの辺りは直してやってくれ」
「気が向いたらね」
 オーエンはそう答えて、カインが手を引く方に体を任せた。
 日は沈み、夜の気配を乗せた風が二人の髪を揺らした。

 カインの店選びは良かった。賑やか過ぎないが気取り過ぎてもいない裏通りにあるビストロは、初めて連れてこられた店だった。思えば二人でディナーをするのは初めてだ。ランチかオーエンの好きな甘いものが食べられるカフェに三時のおやつとして誘われることが多い。
 オーエンはフォンダンショコラをフォークで突く。中から溢れたとろりと甘いチョコレートをフォークですくって、舌先でぺろりと舐める。カインはオーエンがふた口だけ食べたメインディッシュの肉を、ナイフで丁寧に切り分けて食べている。
「俺はレノックスとシノと森で体術の鍛錬をしていたよ。すごい音がしたかと思ったら魔法舎が半壊してびっくりした」
 カインの口はグラスに注がれた赤ワインのせいかいつも以上に滑らかだった。実はもう二本目のボトルが半分以上空いている。
「それで、原因は?」
「オズが……」
 オーエンは赤ワインのグラスを傾けた。それほど好みの味ではないが、飲んでいると気分が良くなってくる。
「オズがパンケーキを焼いていたから」
 カインはぽかんとした顔をした。
「なんで……いや、そういうこともあるか?」
「ないだろ。その中途半端に同意するのをやめろ」
「否定するよりはいいだろ」
 ふっとカインは笑みを溢した。彼もまあまあ酔っているのかもしれない。いつも以上に陽気だ。
「理由なんていくらだってある」
 言葉を探すようにぽつりと呟いた。理由ならいくらでもある。そもそもオズと同じ建物で寝起きしていることがあり得ない。日が暮れると魔法が使えなくなるという明らかな弱みを握っているのに、賢者の魔法使いであるという理由で殺せないのだって腹が立つ。賢者とかいう人間に従えられるのだって苛々する。
 でも、一番は魔法舎にいる魔法使い同士が仲良くしていることが、本当に馬鹿馬鹿しくて、ぶち壊してやりたいのだ。
「どうして戦わないのか、殺し合わないのか……そっちの方がわからない。自分より強い奴に従わされて生きることになんの意味がある?」
「従わされてる、ってわけじゃないんだと思うんだけどな」
 カインは少し迷ってから口にした。
「おまえがこうやって飯に付き合ってるのだって、俺に従わされたからじゃないだろ?」
「もちろん」
 即座に答えてからオーエンは苦いものでも口にしたような顔をした。
「……僕に都合が良かったからだよ」
「なら、他の奴らだってそうなのかも」
「都合がいいから付き合ってるって?」
「ちょっと言葉が悪いけどな。でも、みんな俺とおまえが食事に行くみたいな気持ちでパンケーキを焼いてたんじゃないか」
 カインと食事に行くみたいな気持ち。当然従わされているわけじゃない。すごく楽しみなわけでもない。面倒だとか、ホイホイ誘ってくるのがむかつくとかそういう気持ちもある。一方で、カインと話をしたら暇が潰れるくらいには面白いかもという期待とか、「行く」って言ったら喜ぶんだろうなあとか、そんなことも考えてしまう。それを全部ひっくるめて、時々誘いに乗る。そういう気持ち。
「……パンケーキ食べたくなった」
「は?」
 突拍子もないことを言うとカインは首を傾げた。オーエンが唇の端を上げて笑うと、彼なりの冗談だと気づいたカインが大袈裟なくらいに笑った。蜂蜜色の瞳が細められて、気安い友人の顔になる。
 カインは自分のグラスとオーエンのグラスに残りのワインを全部注いだ。赤い液体に自分の顔の輪郭が映る。オーエンはウェイターを呼び止めてチーズケーキを頼んだ。悔しいことにデザートが美味しい店だ。カインのことだからわかっていて誘ったのだろう。生意気な。
「オーエンは──」
 チーズケーキが運ばれてきて、早速フォークで大きく切り分けたひと欠片をオーエンが口にしたところだった。
「ん?」
 カインはワインを口にしてから告げた。
「死ぬのが怖くないのか?」
 なんだか意外だった。カインはオーエンに好きなものや快いものを尋ねることはよくある。けれど嫌いなものや、まして怖いものの話なんて訊かない。多分カイン自身が訊かれたくないからなのだろう。カインは自分の良い面を見せて、他者の良い面を見たいと思っている。
「どうせ生き返るから怖くないよ」
「でも、痛いだろ?」
「綺麗に死ねるとそんなに。だんだん頭の中が暗くなっていくだけ。息ができないのは辛いけど」
 上手に死ねないと最悪だ。激痛の中でのたうち回って、それでも事切れることができない。そういうときは、自分で死ぬ。その場合は少し苦しい。
「痛みも苦しさも耐えられないものじゃない。負ける方がずっと嫌だ」
 たとえば、アルコールが喉をひりっとさせる感じ。あんな風に痛みや苦しみは、オーエンが生きてきた中でずっと存在しているものだ。

 店を出ると街は深夜という時間帯に足を踏み入れていた。この辺りは夜間営業が許可されている通りだから道ゆく人も多い。夏の長い夜を楽しむように、人々の足取りは軽く見えた。オーエンの隣を歩くカインも楽しそうな、踊るようなリズムの靴音を立てている。
「オーエンは怖くないと言ったけど、俺は怖いんだ」
 魔法舎は王都の外れにある。魔法使いたちの住処とあって、周りに建物は少ない。だから自然と魔法舎に近づくほどに人通りは減り、この辺りにはもうカインとオーエン以外の人影はなかった。
「死ぬことが?」
「自分が死ぬことも、オーエンが死ぬことも」
「僕は生き返る」
「それでも、心臓のあたりが冷たくなる。大事なものが失われていくような気がする」
「錯覚だよ」
「そうかもしれない」
 声色はそう暗くなかった。けれど、カインの横顔に痛みのような何かが走るのを見て、オーエンはじっと彼の顔を見ることが止められなくなった。
「どうして、そんな顔をするの」
「えっ?」
「痛いのも失うのも、おまえじゃない」
 カインの足が止まった。オーエンは二歩先を行って、それからくるりとカインの方を向いた。彼はなぜか傷ついたような顔をしている。オーエンにそんなつもりはなかった。傷つけようと思って告げる言葉には揺るがされないくせに、カインは時々思いがけない言葉でこういう顔をする。
「これは、俺の自分勝手な願いだってわかってるんだけど、オーエンが傷つかないでいてくれたらいいのにって思ってる」
「なんで?」
「多分、好きだから」
 今度はオーエンの方が驚いたような、なんだか酷いことを言われたような顔をした。
「好きって、何?」
「特別にしたい、大事にしたいってことかも」
 オーエンの顔にいよいよ困惑が広がった。どうしてカインがそんな風に自分を見るのかがわからなかった。
 カインは咳払いをすると、真面目な顔で告げた。
「オーエンのことが好きなんだ。恋人になってくれないか?」
 これが何かオーエンにだって分かる。愛の告白というやつだ。だから、オーエンは素直に感想を口にした。
「そんなことでいいの?」
 今度はカインが虚を突かれた顔でまじまじとオーエンを見た。
 みんな恋人という関係が好きだ。人間も魔法使いも、親しくなるとその単語を口にする。特別に愛しい一人。それを定めようとするのはなぜだろう。
「約束はしない。恋人って名付けてあげるだけ。そんなのでいいの?」
 オーエンは好意も関係も永遠ではないと知っている。永遠ではないから、皆思い悩み、苦しむ。その様をオーエンは何度も見てきた。カインは知っているのだろうか。知らないのなら──。
「それでいいんだ」
 知らないのなら、思い知ればいい。永遠でない絶望を知ったときにカインはどんな顔をするだろう。
「それなら、いいよ」
 カインはくしゃりと嬉しそうに笑った。いつか彼をがっかりさせるだろう。その顔を見てやるのは悪くないはずだ。きっと。
 彼はオーエンの方に近づいて、腕を広げるとオーエンを抱きしめる。腕の中は熱くて、知らない匂いがした。

 

こうして夏が始まった。