白亜の海で息を継ぐ - 8/8

エピローグ

 むかつく。
 暑い盛りを過ぎたとはいえ日差しは鬱陶しいし、毎日のように任務だなんだの呼び出される。
 オーエンは任務になんて行きたくなかった。だって王都のジェラート屋で、今日から新しい味のジェラートが食べられるんだとカインから聞いていた。カインは朝から城に行っていたけれど、昼過ぎには魔法舎に戻ってくる。そうしたら二人で出かけようと話していたのだ。
 それなのに、北の国での任務に同行しろと双子がうるさい。賢者は南の魔法使いと共に南の国に赴いていて不在だった。不在の間に舞い込んだ依頼の処理は各国の先生役に任されている。スノウとホワイトだって北の魔法使いを連れ出す難事業を好き好んでしたいわけではないだろうから、緊急度が高い案件だということはオーエンにもわかった。
 それでも、嫌なものは嫌なのだ。
「嫌だ」
「そうか。じゃあ無理にでも来てもらわないとのう」
 賢者だったらこういうときも高圧的に出ることはない。へらへらと笑って頭を下げて見せる。オーエンたち北の魔法使いは絶対にやらないことだ。けれど、彼がそうするからオーエンは「仕方がないな」と口にできる。代わりにオーエンはスノウとホワイトを半眼で睨みつけた。
「ぶっ殺してやる」
 幽霊の方は、どうせ死んでるし。

§

 任務自体はあっけないものだった。近くの村で病人が続出していると聞いて行ってみれば、近くの森にあるキノコの胞子のせいだった。森を丸ごと焼き尽くして、それで終わり。今から戻れば、十分カインとの約束の時間には間に合う。
 それでも、オーエンの気持ちは晴れなかった。
「なんでそんなに機嫌悪いんですか?」
「脅されて無理矢理連れてこられたんだ。機嫌がいいはずないだろ」
 なんの気まぐれかミスラは大人しく双子に連れられて北の塔に現れた。ブラッドリーは元より恩赦のためなら働く気がある。特に今回は楽な仕事の割に刑期が短くなったと喜んでいた。オーエンだけが、嫌々引っ張り出されたのだ。
「なんで双子の言うことを訊くんですか?」
「オズを引き合いに出されたからだよ」
「あなた、オズの言うことなら訊くんですか?」
 その言葉はオーエンを激怒させるのに十分だった。
「そんなわけないだろ」
 腹立たしかった。オズ自体もむかつくが、ミスラの物言いはまるで自分がオズを恐れているみたいじゃないか。確かにオズに勝った試しはない。それでも、大人しく膝をつくと思われてたまるものか。
 ぶっ殺してやる。魔法舎に戻ってきたとき、オーエンの頭の中はそれだけだった。
 オズの自室目掛けて魔法を放つ。部屋には結界があるから、これはまあ狼煙のようなものだ。事実、オズの部屋は無事に見えた。
「私に何か用か?」
 衝撃で外壁の崩れた魔法舎からオズが出てきた。魔道具の杖をオーエンに向けている。
「ああ、なんかムカつくな」
 先ほどまでオーエンのことをぼんやり眺めていたミスラが突然そんなことを言う。
「顔見たら俺も腹が立ってきました」
「やめろ。僕が殺る」
「あなたには無理でしょう」
 それに──とミスラは言葉を継いだ。
「いいんですか? 死にたくないんでしょう?」
 多分それがオーエンを戦いに駆り立てる最後のひと押しだった。
「《クアーレ・モリト》」
 ケルベロスはミスラを薙ぎ倒して、オズの方へと疾走した。
「《ヴォクスノク》」
 雷撃がケルベロス目掛けて落ちる。オーエンは新たな魔法を紡ぎ出す。
「《クーレ・メミニ》」
 心を燃やし尽くす情熱。膝を折らない、従わされたりしない。その矜持でオーエンはオズに挑む。
「《アルシム》」
 ミスラの魔法がオーエンごとオズを灰に帰そうとする。オーエンは舌打ちをした。
「愚かな」
 オズの言葉には哀れみの気配があった
「本当にいいのか?」
 その問いかけの意味をオーエンは理解していた。ミスラと同じだ。
「……いいに決まってるだろ!」
 オーエンは吠える。機嫌は悪かったけれど、魔法を使う感覚はいつもよりも冴えていた。中央の国の精霊たちを従える。乱暴に、容赦なく。
「《クアーレ・モリト》」
 大地が揺れる。オズは一瞥すると杖を軽く叩き、オーエンの魔法を打ち消す。
「《ヴォクスノク》」

 雷撃が体を撃ち抜いた瞬間のことは何故か鮮明に覚えている。悔しさと憎しみとそれから──申し訳なさ。
 きみが触れたこの体で生きてみたかった。きみが死なないでほしいと祈る気持ちに応えてみたかった。
 自分はその感情を踏み躙ることができる。
 ほんと──。
「馬鹿みたい」

§

 オーエンが任務から帰ってきたらジェラートを食べに行こう。そう思っていたのに、カインがちょうど魔法舎に戻ると当のオーエンは何故かオズとミスラと戦っていた。
 オズの雷撃を受けたオーエンはほとんど即死だった。傷口が炭化しているせいで出血は目立たないが、肉の焦げた変な匂いがする。オズとミスラの決着も、先ほどついたように見える。賢者が南の国から戻ってきたのだ。賢者が慌てて取りなすことでなんとかこの場は収まった。
 カインはオーエンの体をこっそりと目立たないところに運ぶ。オーエンの体はすでに時間を巻き戻すように修復されていった。どこかに打ちつけたのか血を流していたこめかみの傷は塞がっていて、すでに怪我の痕跡もない。黒く焦げた胴体はみるみるうちに白く滑らかな肌になった。カインはそっと焼け焦げてぼろぼろになった衣服を払いのけて彼の腹部を見た。傷ひとつない、綺麗な体。
「おはよう」
 二色の瞳がカインを捉える。オーエンは苦くて酸っぱいレモンを口に詰め込まれたような顔をした。
「……おはよう」
 がっかりした気持ちがないわけではない。己の心配を無下にされた怒りがないわけでもない。けれど、いつかはこうなっただろうという諦観が上回った。
「死ぬなよ」
 ぼそっと呟いた声にはカイン自身が思っていたよりも拗ねたような子供っぽい響きがある。怒ってはいない。でも納得もしなかった。これが、カインが譲歩できる範囲だ。
「死にたいわけじゃない」
 オーエンの答えは最もだ。別に死にたいわけじゃなくて、でも生きていないといけないわけじゃない。言葉遊びみたいだけれど、彼が生きてる場所はそういうところにある。
 自分たちはこれでいいのだ。
「三時のおやつは?」
 カインが尋ねると、オーエンは珍しく邪気のないきょとんとした顔をした。それから口元が愉快そうな笑みの形を作った。
「まだ」
 カインは仰向けに倒れたオーエンに向かって手を伸ばす。オーエンがその手を取ると、カインは水から引き上げるみたいにその手を引っ張り上げた。
 夕刻の魔法舎に風が吹く。木立を揺らすその風はもう、夏の終わりの気配がした。

〈終〉