第二章 触れ合う孤独
自分のものではない体温。自分のものではない匂い。ここ最近のオーエンはそういうものに包まれている。
「明かり、消していいか?」
「うん」
部屋の明かりを消すと、カインはオーエンが横になっているベッドに入ってきた。それからカインは腕をオーエンの背中に回して引き寄せる。大きな手のひらが背中を撫でる。それに飽きると今度はオーエンの指先に触れて、指の数を数えるみたいに互いの指を絡ませる。剣を握るカインの指はところどころ固くなっていて少しだけ引っかかった。
あの日、カインがオーエンの部屋にやってきてから、二人の間に性行為はない。代わりに任務で魔法舎を空けない日は、どちらかの部屋でこうして添い寝をしている。おかげさまでオーエンの部屋のベッドも、二人分のサイズに広げたままだ。
カインはべたべた触ってくるけど、それ以上のことはしてこないし、触り方もあんまりいやらしくない。子供とか動物にするみたいな感じだ。馬鹿にされているような気がしないでもないけれど、嫌ではなかったので不満は言わなかった。
寝間着の薄い布越しにカインの心臓が動いている。オーエンはそこに顔を埋めた。夜は静かだと思っていたけれど、カインの腕の中は呼吸や鼓動の音でうるさい。うるさいのに何故か心地良い。
「なに?」
カインの指がオーエンの頬を撫でた。
「なんでもない」
オーエンから顔は見えないが、カインの返答は笑みを含んだ声だった。
「なんだよ」
最近気づいたことだけれど、カインは親愛を確認するみたいに気を引こうとするときがある。それが子供っぽくて、なんだか可愛いなと思う。
背中や肩を撫でていた手がゆっくりになって、やがて止まる。呼吸が寝息になる、オーエンは少しだけ身じろぎして、見上げるようにしてカインの顔を見た。寝顔は本当に──赤ちゃんの騎士様だ。
オーエンは魔法舎で眠ることはほとんどない。だからこうしてじっとカインの顔を見て過ごすか、魔法を使ってひっそりと魔法舎を抜け出すかのどちらかだ。最近は多少慣れてきたようだけれど、カインも他人と眠るのは苦手なようで、最初のうちはオーエンが寝返りを打つたび律儀に目を覚ましていた。カインもオーエンも一人で眠る方がよっぽど楽なのに、何故か二人で同じベッドの中にいる。
北の国の長い冬には面白いものがあまりない。死者とこれから死者になる者たちが集まる夢の森ですら、本当に寒く夜が長い冬は静まり返っている。そういう時期は寝床に定めた安全な場所で長く眠るか、じっと時が過ぎるのを待つ。だから、カインの寝顔を一晩中眺めていても、オーエンは退屈しない。一晩など長く生きてきた中では一瞬のことでしかない。
セックスは好きでも嫌いでもなかった。その行為を完遂するのに困ることはなかった一方で、特に充足感もない。行為の最中やその後の痛みや怠さを拭うのが面倒だったから、どちらかといえば嫌いかもしれない。それでも恋人という関係はセックスをするものだと知っていたし、それによって人間も魔法使いも心と体を預けてくる。あまりにも単純でオーエンからすれば拍子抜けすることだけれど、そういうものだ。
だから、カインが性行為抜きで恋人らしい振る舞いをするのはなんだか奇妙な感じがする。少しだけ落ち着かない。
カインがこのところするように、温かい手で顔や背中を撫でられるのは好きだ。ふわふわとした気持ちになって、眠くなってくる。けれど、こんなことをしても、カインには一つも得はない。いや、実はこちらを支配しようとしているのだろうか。
そんな疑わしい気持ちがオーエンの中に積もった結果──。
「おまえ、僕に嫌がらせでもしてるわけ?」
「えっ!?」
オーエンの髪を指先で梳いていたカインの手が止まる。
「騎士様にそうやって……されると眠くなるんだけど……」
「別に寝てもいいぞ」
「魔法舎にいると落ち着かない」
オーエンは不満と一緒にカインの手から逃れるように寝返りを打った。
「要するにこうやってると眠くなるから、安心できる場所でぐっすり寝たいってことで合ってるか?」
なんだか違う気もするが、上手い反論が思いつかずにオーエンは頷いた。
「……そう」
「そっかあ」
カインはちょっと考える素振りを見せてから、「そうだ」と声を上げてオーエンの肩を叩く。
「週末、任務も何もなければ出かけないか?」
「どこに?」
オーエンは話を聞こうと再びカインの方に顔を向けた。彼は頬杖をついて得意そうに答える。
「誰もいないところ」
そう告げられてオーエンの頭に浮かんだのは、静かな長い冬の情景だった。あんな風に穏やかで虚ろな時間があるのだろうか。
「行く」
カインの手がオーエンの肩に触れる。抱き寄せられて、オーエンはつま先でカインのくるぶしを突いた。じゃれ合うように足を絡めていると、一つの生き物だったような錯覚に囚われる。そんなことはあり得ないのに。
§
週末になり、カインがオーエンを連れて行ったのは彼の言葉通り誰もいないところだった。
「ここってなんなの?」
「何にもない平原だよ。この辺りは土地が痩せてて、農地にも適さない。主要街道から外れているから街も発展しなかった」
そう言いながらカインは手際良く金属製の骨組みを組み立てていった。骨組みの上に固く丈夫な布を被せて、最後にロープで地面に固定する。魔法を使っていないのに、あっという間にテントが立つ。
「そんなところをなんで知ってるんだよ」
オーエンはテントの周りをぐるりと一周すると結界を張った。周りから検知されないようにする魔法だ。といっても本当に人の気配も動物の気配もない。数百年も前にはこういう誰もいない土地はどこにでもあった。けれど、大きな争いがなくなり繁栄を続ける今の中央の国では珍しい。
「騎士団にいた頃、野営訓練に使われてたんだ」
魔法舎から箒で空を飛んでくれば一時間とかからず、徒歩でも王都から半日足らずの場所だから確かに訓練にはちょうど良いだろう。
カインは肩にかけた袋をテントの中に入れると、呪文を唱える。そのまま魔法舎から持ってきたマットレスや枕、ブランケットが袋から出てくる。オーエンは呆れ顔になった。
「大雑把な荷造りすぎない?」
「寝袋よりも寝やすいだろ? 荷物を小さくする魔法は得意なんだ」
「胸を張るなよ。シーツが皺だらけになってる」
「あー……」
オーエンが呪文を唱えると、アイロンをかけたようにシーツがぴんと伸びた。カインはテントと一緒に押し込まれていた荷物の中から折り畳みの椅子を引っ張り出す。
「ほら、座って待ってろって」
失態を誤魔化すようにオーエンに椅子を勧める。オーエンは背もたれの付いている椅子に腰を下ろすと、大人しくカインが動く様を眺めることにした。
すでに日は地平線に沈み始めている。魔法舎の周りで集めてきた木の枝と松ぼっくりをテント近くの地面に並べて、魔法で火をつける。
「《グラディアス・プロセーラ》」
火種はパチパチと音を立てて、大きな炎へと育っていく。炎の熱と煙は空に向かって昇っていった。オーエンは片膝を抱えて炎を眺める。熱い空気は額や頬を火照らせるし、目も乾く。いつもなら息をするように魔法で防ぐのだが、なぜかそんな気になれず、帽子を深く被って熱気を避けることにした。
カインは上着を脱いで、シャツの袖を捲ると夕食の準備を始めた。焚き火の上に金網を載せて、その上に水の入ったケトルを置く。それから鞄の中に入っていた瓶からソーセージを取り出した。金串に刺すと、それを焚き火の周りに突き刺してソーセージを火で炙る。そこまでやって、カインも椅子に腰掛けた。
「どうした?」
カインに声をかけられて、オーエンは顔を上げた。
「どうもしない。ただ……ここって本当に人の気配がない……。だから、うっかりここで死んだら死体は誰にも見つからないんだろうなって思った」
脅かすような気持ちだったけれど、カインは特に恐れを感じさせることなく、むしろ懐かしそうに語った。
「そうそう。だから俺は先輩から絶対に二人以上で行動しろって何百回も聞かされたし、後輩には何百回も言ったよ」
「懐かしい?」
カインを動揺させてやろうという企みはようやく成功した。彼は一瞬動きを止めて、それから余っていた枝で焚き火を突いた。灰が崩れ大きく炎が揺れる。ケトルはシューシューと沸き立つ音を立てていた。
「そりゃあ懐かしいさ」
マグカップを二つ、湯を入れて温める。球形の茶漉しの中に缶から適当に茶葉を入れ、湯を捨てたマグカップの中に新しいお湯と一緒に入れる。本式の紅茶の入れ方ではなかったけれど、カインの手つきは滑らかだった。
「騎士団にいられなくなって、当然団員たちが住んでる官舎も追い出された。栄光の街の実家に帰ればいいってのはわかってたんだけどさ、あのときはこのままじゃ帰れない気がしてしばらく中央の国中を旅して彷徨ってた。ここにも、来たことがある」
「僕のせいだって言いたいの?」
「オーエンは、それを自分のせいだと思っているのか?」
カインにしては珍しく、突き放すような冷たさのある声色だった。
「知らない。おまえのことなんか」
反射的にそう口にした。自分のせい? 冗談じゃない。カインが騎士の称号を剥奪されたのは人間たちの都合じゃないか。
「それならいいだろ。当てつけのつもりはないし、おまえに何か言いたいことがあるわけでもない。意地悪なことを言い合うのは止めよう」
自分のせいなんかじゃない。そう思う一方で、その傷を与えたのが自分ではないということもオーエンは認め難かった。その左目も、騎士としての誇りも役割も、全部奪ったのは自分だ。自分がカインに失望と孤独を教えてやったのに。
「はい。ミルクはないけど代わりにこれ」
茶漉しを引き上げた紅茶をカインはオーエンに手渡す。それと一緒に手のひらに乗るサイズの缶を差し出した。
「何これ?」
「練乳だよ。紅茶に入れたことはない?」
オーエンは首を振る。練乳は知っている。とても甘いやつ。北の国では保存食としてよく食べられている。
カインがナイフで缶を切り開けると、マグカップにとろりと練乳を垂らした。
「どうだ?」
スプーンでかき混ぜながら飲む。甘くほのかにミルクの香りがする。普段飲むようなミルクティーとは違う味がするけれど、甘いものはオーエンの味覚に合う。
「もっと」
そう言って求め続けると、カインは缶の中の練乳を最終的には全部オーエンのカップの中に入れた。
焼けたソーセージは乾いたパンの間に挟んで夕食にする。保存用のソーセージは塩気が強いので、こうしないと食べづらいのだ。紅茶としてのアイデンティティが失われた練乳だらけの飲み物とソーセージを交互に口にする。
「オーエン! 星がすごく綺麗だ!」
カインが頭上を指差した。彼の弾んだ声につられて、オーエンも椅子の背もたれに体を預けて空を見上げる。快晴の空には無数の光が輝いていた。今日は〈大いなる厄災〉がほとんど見えない夜だった。周りには背の高い建物もなく、本当に半球の空いっぱいに星が見える。
「一人だったんじゃないか」
「えっ?」
二人以上で行動しろというルールは人間のもので、その輪から追い出されたカインは一人でここにいたのだろう。荒涼とした大地の中で、嘘みたいに明るい夜空の下に。
しばらく考えてから、カインはオーエンの言いたかったことに気づいたらしい。「ああ」と声を上げると悪戯をした子供のように笑った。
「秘密、な」
誰に対しての秘密なんだよ、と返す代わりにオーエンは苦笑を一つこぼした。
「今は一人じゃないし」
「一人だよ」
冷めてきたカップを撫でてオーエンは言い聞かせるように告げる。
「魔法使いっていう生き物は結局一人で生きていくものなんだ」
カインの大雑把な荷造りのおかげでテントの中は思ったよりずっと快適だった。毛布に潜り込むと、いつもカインの部屋で嗅いでいるのと同じ匂いがする。ランタンを消すとテントの中は真っ暗だが、闇に慣れつつある目にうっすらと輪郭が見える。
「くすぐったい」
「悪い」
カインの指先がオーエンの耳たぶをつまんで首筋の辺りをくすぐる。口では謝ったけれど、カインは悪びれている様子もない。 環境が変わったせいか、それともカインがいつもよりもじゃれつくように触れてくるせいか──主に後者のせいで、あまり眠くない。
誰かがそばにいるとひりひりと焼けるような感覚がしていた。最初はカインといるときもそれがまとわりついていた。けれど、今はあまり感じない。体を触られるのも最初は違和感があるだけだったのに、だんだん温かかったりくすぐったかったりして、いつしかずっと触れていてほしいと思うようになった。
オーエンには家族も友人も仲間もいない。ひとりの世界に入り込んでくるものは、ほとんどが敵で、そうでなければいつか敵になるものだった。それならカインはなんなのだろう。恋人、という言葉を口の中で転がす。特別に愛しいひと。オーエンにとってはそれがよくわからない。こんな風にしていたって何も残らないのに。
「オーエン」
名前を呼ばれて顔を向けると、唇にキスをされた。キスという行為もその意味も知っているつもりだった。でも、カインとするのは全然違う。頭の奥の方がぼうっとして、息ができなくて苦しい。それなのにずっとこうしていたい。舌の先をちゅっと吸われると背中からうなじまで電流が走るみたいに体がそわそわする。
「ん……あっ」
離れがたい気持ちがあるせいか、無意識のうちにオーエンはカインの着ているタンクトップの布地をぎゅっと握る。唇が離れるとカインが嬉しそうに笑っているのに気づいた。
「なに?」
「いや、オーエンにも素直なところがあるなって」
タンクトップを握っていたオーエンの手にカインの手が包み込むようにして触れる。少しずつ固く握りしめていたオーエンの指が解けて、そこにカインの指が絡む。いつも触れられたときに感じるのとは違った感覚。眠くなるというより、むしろ体が熱くなっていく。
もっと触ってほしい。体のいろんなところに触れて、気持ちよくしてほしい。
初めて湧き上がってくる欲求に、オーエンが戸惑っているその最中だった。
「あんまりこうしてると寝られないか」
「えっ?」
「オーエンにずっと触っていたくなるんだけど、ゆっくり寝たいって言ってたもんな」
「う、うん……?」
「おやすみ」
カインはぽんぽんとオーエンの背中を叩くと、そのまま眠りに落ちていった。寝息を立てるカインを側にして、オーエンは自分の内に浮かんだ欲求を押し込める。
「最悪」
そう言って足の辺りを蹴ってやったが、あまり威力は出ず、カインは眠ったままだ。オーエンも馬鹿馬鹿しくなって瞼を閉じる。
結局、夜が明けるまでオーエンはカインの側で眠った。
これで眠れなかったのならいくらでも文句を言えたのだが、結局朝まで熟睡していたので詰るための道具もない。オーエンが起き出してきたとき、カインはすでにテントの外にいた。
「おはよう」
カインは手首を返して魔道具の剣を鞘に収める。精霊たちのざわめく気配。魔法を使った痕跡だ。カインが毎朝体を動かしていることは知っていたが、魔法の練習をしていることは知らなかった。
「オーエン?」
「もう一回やってみてよ」
オーエンは静かに告げた。カインは意外そうな顔をしたが、魔道具をもう一度構えると呪文を唱えた。
「《グラディアス・プロセーラ》」
風が巻き起こる。緩やかな風から少しずつ水分だけを取り出して宙に浮かす。
「へえ。思ったよりもできてる」
冷えた風を浴びながら、オーエンは意外という顔をして呟いた。基本的な魔法と言えばそれまでだが、カインはこういった繊細な魔法を苦手にしていた。
「これでも練習してるんだよ」
カインは唇を尖らせて答える。
「いいじゃない」
「おまえが素直に褒めると怖いな……」
「は?」
カインは集めた水をケトルに移す。
「オズに俺は体と心が不可分だと言われた」
オズの名前にオーエンの眉がぴくりと動く。
「それってどういうこと?」
「オズもうまく説明できないって言っていた。俺は、自分の扱える魔力が精々自分の手が届く範囲のものでしかないってことなんだろうかって思ってる」
「ふうん」
オーエンはつまらなさそうに呟いて、それからため息まじりに続けた。
「魔力の問題じゃなくて魔法を使うときのイメージの話なんじゃないの?」
「えっ?」
「どんなふうに精霊に呼びかけるか、どんな風にこの世界に干渉したいか。そういうものを形作って魔力を注ぎ込む。この形作る方法は魔法使いによって様々だ。強力な魔法を使おうとするなら、膨大な魔力とそれに耐えうるイメージが必要だけど」
「オズが言ったことはイメージの話ってことか?」
「さあ? 本当のところはオズじゃないとわからない……」
オーエンはカインの手を掴む。
「極端な例だけど、騎士様は僕を捕まえるならこうやって手を伸ばすだろ?」
「ああ。というか、それしかないじゃないか」
「違う。僕だったら魔法で騎士様の体を動かなくさせることもできるし、その辺のロープを使って足を縛るようにすることもできる。何かをしようと思ったときに、自分の体を動かさなくても、それ以外の方法で叶えることができる」
オーエンは息をするように魔法が使える。それは本当に息をするように、歩くように、意識せずにできることなのだ。
「それって俺が魔法を使い慣れていないってことではなく?」
「それもあると思う。でも、騎士様の素質自体が腕を掴むっていう肉体の動きが基本になってるんだと思う。例えば、他者を拘束するときに、腕を掴むという行為と魔法をセットで意識づければ、通常より強力な魔法が行使できる。媒介や呪文と一緒だ」
オーエンはカインの手をパッと離した。
「僕は騎士様を捕まえるなら、手を伸ばすのもそれ以外の選択肢も全部並列であるんだ。むしろ魔法を使う方が自然で、思ったことと体の動きが一致しない。まあ、長く生きてる魔法使いはこっちの方が普通かもしれないけど、そうじゃなきゃいけないわけじゃない」
「なるほど……」
オーエンははーっとため息をついて、カインの眉間を人差し指で突いた。
「だからその辛気臭い顔やめたら?」
オーエンの言葉にカインはにへらと笑った。
「ありがとな」
それからカインは思いついたように尋ねた。
「魔法を使う感覚は魔法使いによって違うって聞いたけど、オーエンにとっては?」
「え? そんなのわかんない」
カインの問いは「歩くのってどういう感覚か」と訊いているのと同じことだ。オーエンは考えたこともない。
「そっか。でも、もし思いついたら教えてくれよ」
どうしてそんなことが知りたいのだろう。役に立つことでもなければカインの参考になるような話でもない。それは多分、夜に彼がオーエンを抱きしめるのと同じような詮無い行為だ。
「思いついたらね」
それでも、オーエンはそれを無駄だと思いながら切って捨てることができないでいる。
パンにジャムを塗っただけの朝食を食べると、テントを片付けて来た時と同じように荷造りした。袋の中に放り込んでは荷物を小さくするというカインのやり方は大雑把だが早い。片付け終えると、辺りは本当に何もない荒野が広がっている。
「おまえもう一人でここに来るなよ」
いざ帰ろうかと箒を出したところで、オーエンはぽつりと口にする。
「なんで?」
「ここでおまえがのたれ死んだら僕の左目を探すのが大変だろ」
カインの周りにはいつも人間や魔法使いがいる。それはカインが一人で生きていけないということではない。多分この荒野の中で、美しい星空を友にして彼は一人でも生きていける。でも、それはあんまりカインらしくないと思うのだ。
「それもそうだな」
カインはちょっと驚いた顔をしてから相好を崩した。
「真面目に聞けよ」
「聞いてる。オーエンからそういう風に言われるのが意外だったんだ」
カインは真面目な顔を作った。
「らしくない死に方するな……ってことだろ?」
オーエンは目を瞬かせて、それから答えた。
「死に方を気にする前に生き方を気にしろよ」
短い逃避行はここまで。魔法舎に戻ると何事もなかったようにいつも通りの日常が始まるのだ。
§
「なんか変なんだよね」
オーエンは箒に腰掛けて、下ろした足をぶらつかせながらそう言った。
「何がです?」
ミスラは欠伸を一つしてからつまらなさそうに相槌を打った。
「前は眠くなったことなのに、最近はむしろ目が冴えるというか、落ち着かなくなるようになって……」
「はあ。いい気味ですね」
ミスラが話し相手としては相当問題があることをオーエンは知っていたが、だからこそちょっとした心情の吐露には都合が良い。状況も前提もすっ飛ばして話したとしても、彼の相槌は大して変わらないからだ。
二人で魔法舎を抜け出した夜の後も、相変わらずカインと添い寝している。けれどあの夜以降、カインに触れられるとなんだか落ち着かないのだ。眠くなるとかリラックスできるのとは違う、体がむずむずするような感覚。カインは気にせず眠くなると勝手に寝るし、オーエンもそうなるとしょうがないので部屋を抜け出してどこかで休む。眠いのに寝られないより良いと最初は思ったが、これはこれでストレスが溜まる。
「賢者様、貸してあげましょうか? あんまり役に立たないですけど」
「俺、一応ここにいるんですけど……あんまりじゃないですか……」
あんまりな言い様にミスラの箒の後ろに乗せられた賢者がおずおずと存在を主張した。任務中、箒に乗って魔法生物を追いかけているミスラを見て「ミスラの箒もかっこいいですね」と賢者が口にしたのが、この三人の奇妙なドライブの始まりだった。ミスラは空間転移で移動できる分、あまり箒には乗らない。しかし、「かっこいい」と言われたのが彼の琴線に触れたのか、無事に討伐を依頼された魔法生物を倒したあと、ミスラは賢者を掴んで箒に乗せるとどこかへ飛んでいった。オーエンが追いかけたのは、その方が面白そうだったからだ。
「それで、要ります?」
ミスラに問われたオーエンの顔が賢者に向けられる。今にも空中でミスラからオーエンに向かってボールのごとく投げられるのではないかと危惧している賢者の顔は相当青ざめていた。それをたっぷり楽しんでからオーエンは笑顔で告げる。
「要らない」
「そうですか」
さして表情に変化のないミスラと違って、賢者は露骨にほっとした顔を見せた。本当に遊び甲斐があって楽しい。
「眠れないのは辛いですよね。オーエンが、前は眠くなっていたのに、今は落ち着かなくなることって具体的にどんなことなんですか?」
賢者の問いかけをオーエンは無視することにした。あんなこと、言えるわけがない。
「ミスラ、飽きちゃった。アルシムしてよ」
「そうですね。帰りますか」
ミスラが空間の扉を開く。
「二人とも気分屋すぎませんか!?」
賢者の文句を聞きながら魔法舎へと戻る。
§
その夜もオーエンはカインの部屋にいた。
「何読んでるの?」
カインはベットボードに体を預けて本を読んでいる。オーエンは寝そべったまま問いかけた。
「シノから借りた本。ファウストが授業で使ってるらしい」
「へえ」
魔法舎にも夏の気配が満ち始めていた。庭の木々の緑は鮮やかで、三時のおやつには氷菓が出る。東の魔法使いと賢者は今度湖畔に出かけるんだと言っていた。日々は少しずつ移ろい、変わっていく。特に若い命はあっという間に変化する。
「でも今日はもう寝るか」
オーエンが退屈そうにしていたのに気づいたのか、カインは本に栞を挟むとぐっと大きく伸びをした。魔法で本を机の上に置くとオーエンの隣で横になる。
「オーエン」
カインはオーエンの前髪を指でかき分けると、額にキスをした。それから唇に。すっかり馴染んだ味がする。布越しに触れたカインの体はほんのりと熱い。けれど、オーエンは自分の顔がそれ以上に火照っているのを感じる。カインの手が寝間着の布越しにオーエンの肩甲骨の谷間を撫でるともどかしくなった。直接肌に触れてほしい。背中だけじゃなくて、もっといろんなところ──。
「ねえ……」
「ん?」
オーエンはカインの腕の中で訴えかけた。
「……って」
「なんだ?」
「もっと……触ってほしい……」
カインはちょっと戸惑ったみたいに首を傾げる。それからオーエンの背中をさっきと同じようにさすった。
「こういう感じじゃなくて?」
「直接触ってもいいから……」
少しの間をおいてから、寝間着の裾から忍び込んだカインの指先が背骨をなぞる。
「こういうこと?」
まるで体の中を電流が突き抜けたような感覚に陥る。オーエンはただただ首を縦に振った。
「あ……っ……ひやっ……」
腰に伸ばされた手が腰骨から臍の周りを撫でる。柔らかい皮膚から感じる刺激にオーエンの体は完全におかしくなっていた。カインの顔を直視できずに顔を必死に逸らす。ただただ顔が、体が熱い。
「顔見せてくれ」
カインの手がオーエンの顎に触れる。オーエンは抵抗する気力もなかった。呆然としたような顔で、わずかに目を潤ませている。カインは思わず生唾を飲み込んだ。オーエンは自分がどんな顔をしているのかわかっていない。
「体おかしい……」
「大丈夫だよ。おかしくない」
カインは優しく言うと、オーエンの寝間着のボタンを外していった。
「嫌だったり、痛かったりしたら言ってくれ」
それは少し言い訳がましい口調だったかもしれない。
カインはオーエンを仰向けに寝かせるとボタンを外した寝間着の身ごろをはだけさせた。それから鎖骨のあたりに口付ける。ちゅうっと吸うとオーエンの体が震えた。
「これ……なに?」
「嫌な感じがするか?」
オーエンは首を振る。未知の感覚に戸惑いはあるけれども、不思議と嫌ではなかった。むしろ、もっと深く強くこの感覚を味わいたいと思ってしまう。
「なら、気持ちいい?」
「これって気持ちいいの?」
カインの指先が脇の下の窪みをくすぐるので、オーエンは思わず笑う。くすぐったさと体の芯が熱くなる感じに溺れていく。これが気持ちいいという感覚なのだろうか。
「オーエン」
カインが物欲しげな顔をしてオーエンの唇を喰む。いつもより激しく執拗なキスだった。オーエンの口の中を、余さず舐め尽くすようにカインの舌が動く。口の中にも舌先で触れられると体が疼く場所がある。オーエンが言ったわけでもないのに、カインはそこを探り当てて暴く。体が溶けてしまいそうなくらい熱い。
「いや……」
唇が離れると思わずオーエンの口から漏れた。その言葉を聞いてカインはもう一度ちゅっと唇に触れるだけのキスをする。
それからカインの指がオーエンの胸の尖りに触れた。
「……!」
今までとは段違いの快感が体を駆け上がって、オーエンは声も忘れてしまった。ふにふにと弄ぶような刺激は決して強いものではなかったけれど、今のオーエンには十分だった。
頭の奥の方で何かが弾けるような感じがして、次の瞬間には股間の辺りに温く湿った感触が広がる。
「なん……で……」
一瞬置いてから射精したことに気づく。
「そんなによかったんだな」
カインの手がオーエンの頭を撫でる。
「触ってないのに……」
「でも気持ちよかったんだろ?」
オーエンは頷く。確かに気持ちよかったけれど、性器に触れたわけでもないのにこんな風になってしまうなんて。
「ズボン脱ごうか」
カインに寝間着のズボンと下履きを剥ぎ取られる。みっともないくらいに精液でぐちゃぐちゃになってしまったそれを見て、今更ながらオーエンの顔に羞恥が浮かぶ。その上、一度達したはずのオーエンの性器はすでに芯を持ち始めていた。体がじんじんと何かを求めるように疼く。
「大丈夫だよ。俺もオーエンに触られると……興奮するし……」
「そう……なの?」
オーエンは体を起こすと彼が着ているタンクトップの隙間から彼の脇腹に触れた。筋肉の線をなぞるみたいに指を這わせるとカインは声を出して笑った。
「なんかくすぐったい」
「大人しくしてろよ」
身を捩るカインからタンクトップを引き剥がす。うっすらと汗ばんだ胸元に耳を寄せるとドクン、ドクンと血の流れる音がした。
「ん……っ」
オーエンが喉の下の骨をなぞるように舐めると、頭上から熱っぽい吐息が漏れた。
「あんまり煽らないでくれ」
カインの腕がオーエンの背中に回されて、背中から下──衣服を身につけていない臀部に伸びる。
「いいのか?」
そのとき、オーエンはなぜか一瞬体が強張るのを感じた。今まで何度もやってきた行為だ。それなのに、一瞬躊躇ってからオーエンは頷いた。
「いいよ」
カインはベッドサイドにおいていた小瓶からクリームを取り出した。ここ最近──つまり二人の間に性行為がなくなってからもおいてあったやつだ。
「あ……っ」
「大丈夫。力抜いてくれ」
オーエンはカインにもたれるように体を預けた。自分の見えないところで内側が解されていく。指がクリームの力で奥へと入っていく。痛みはないが快感もあまりない。オーエンの中に入っていない方のカインの指先がオーエンの上半身を弄った。
「さわ……っ……あっ」
乳首を指先でつままれて捻られる。その刺激で体の奥が収縮するのを感じる。中の刺激が先程までよりもはっきりと感じられるようになっていく。二本に増えた指を飲み込んで押し拡げるように掻き回すそれを柔らかい肉襞が絡みとる。時々いいところに触れてオーエンの口から言葉にならない声が漏れた。
「それ……」
オーエンは自分の体に当たっている硬いものに触れる。
「言っただろ……? 俺もオーエンに触られるとだめなんだよ」
ズボン越しでもわかるくらいはっきりとカインのそれがそそり立っている。柔らかいズボンだから余計に目立った。
カインはズボンを下ろす。
「後ろ向きの方が楽だよな」
「うん」
顔が見えないのは残念だけど背中の方から挿入される方が体は楽だ。カインはオーエンをうつ伏せにさせてから腰だけ持ち上げて、薄い尻の間に自身の性器を当てがった。
「苦しかったらちゃんと言ってくれよ」
「うん」
カインのものが入ってくると思うと、ドキドキした。肌と肌が触れ合うときの高揚感の比ではない。お互いが交じり合う瞬間を期待していた。そのはずなのに──。
「うっ……」
目を開けているはずなのに、急に目の前が真っ暗になった。ベッドの上にいるはずなのになぜか固い床の感触がする。無理矢理床に押し付けられて、衣服を剥ぎ取られる。優しさも愛情もなく体をこじ開けられる苦痛。体を切り裂かれるような痛み。閉じていた蓋が開いたように今感じているわけではない苦痛が体の奥から湧き出るようだった。
「オーエン!」
カインの声が遠くに聞こえる。熱いくらいだった体が今は冷たい。内臓を握りつぶされたような苦しさに息を吐こうとして失敗した。
「ごほっ……」
胃のなかにあるものを全部嘔吐して、それでも気持ち悪さが消えない。体の内側がひっくり返ったみたいに胃液を吐き続けた。
「ううっ……」
タオルのようなものがかけられて背中を撫でる手がある。
「オーエン。大丈夫だから」
「なんで……」
カインはずっと優しかった。オーエンの嫌がることはしなかったし、カインに体を預けるのは気持ち良いと思っていた。それなのになぜか体が動かない。
「なんにも覚えてないのに……」
「息を吸うんだ。それからゆっくり吐いて」
カインの言う通りに息を吸って、吐く。ようやくまともに目の前が見えるようになった。体が氷の湖に突き落とされたみたいに冷たい。その中でカインが撫でてくれる背中だけが温かかった。
オーエンが顔を上げるとカインはほっとしたような顔をした。
「僕は……別に怖いわけじゃない……」
「ちゃんとわかってるから」
「なら、そんな顔するな!」
わけがわからなかった。自分の奥底にある苦痛が引き摺り出されて晒される。
カインは不安そうな顔でオーエンを見ている。その顔に八つ当たりめいた怒りが湧く。心配されるようなことはない。ないはずなのに。
「……っ!」
こんなときでも息を吸うように魔法は使えた。姿を消して、そのまま自室に戻る。
「どうして……」
オーエンは床にそのまま倒れ込んだ。記憶を辿っても思い出せない。ただただ、苦痛だけが身の内にある。
痛みや苦しみは生きるのに必要な機能だ。
逃れられないことは知っていた。だから、奥深くに閉じ込めて考えないようにする。オーエンはそうやって地中深くにいろんなものを埋めている。掘り起こさなければないものと一緒だから。
それなのに見ないふりをしていた場所を覗いてしまった。カインとなら覗いてみてもいいと思ってしまったからだ。