白亜の海で息を継ぐ - 2/8

第一章 独善と理解

 多分これは自己満足のようなものなのだ。
 あの日、カインの目の前で魔法舎が爆発した。実際は精々が半壊といった程度で、建物の骨組みは残っていたから爆発というのは大袈裟かも知れない。しかし、カインの体感的には爆発だった。一緒に森にいたシノとレノックスに訊いたって同じことを言うだろう。
 オズの力は圧倒的で、ミスラの魔法は躍動していた。オーエンの放つ魔法は澄んでいて容赦がない。魔法使いたちによる闘争は不思議と美しい。溌剌とした力の奔流がダンスを踊るようにうねっている。それは型を押さえた剣の動きにも似ていた。同じ技量のものが最善手を尽くせば刺突は永遠に続く。もっとも、技量が完全に均衡することはほとんどないし、最善手を無限に続けることはできないのだが。
 オーエンの瞳は輝いていた。生きている目だ。あまりにも鮮烈で、カインの視線を離さない。なんだか遠い世界にいるようだった。実際、カインとオーエンの間には隔たりがある。彼らの使う魔法はカインのそれと全然違う。足を踏み込むことが許されぬ領域の戦いがそこにあった。
 一瞬の間隙を突いてオーエンの体が吹き飛ばされるのを見て、カインは思わずその方角に向かった。魔法舎の敷地内は荒れ放題で、瓦礫や倒れた木を避けながら進む。オーエンは敷地内の片隅に倒れていた。煉瓦で囲まれた花壇を上半身が潰していて、右頬が砕けた煉瓦で赤く切り裂かれている。死んでいることは明らかだった。
 頭では生き返ることを理解していても、オーエンの死体を見るとぞっとする。明確な死の匂い。終わりの気配。
 死なないでほしい。
 少しずつ元の体に戻っていくオーエンを見ながらカインは思う。それは自己満足のようなものでしかないのだけれど。きっと意味もないのだけど。
 死んでもオーエンに損なわれるところはない。それでも大事な何かが失われることをカインは怖れている。痛みや苦しみに苛まれなければいい。心が、どこかにある彼の魂が傷つかなければいい。きっとオーエンなら馬鹿馬鹿しいと一笑に付す、カインの勝手な願望だ。
 恋人になったからと言ってオーエンがカインの腕の中に留まってくれるとは思えなかった。それでも、繋ぎ止めたいという想いを口にしたら、それは愛の告白になった。

§

 中央の国にも夏がやってきた。夜風の冷たさが心地よく感じるようになると、カインは夏が来たと実感する。夏生まれのせいか、たとえ暑さに辟易しても夏は嫌いじゃない。自室の窓を開け放ってカインは風呂上がりの体を冷ます。ひと任務終えた後の風呂は最高だった。
「《グラディアス・プロセーラ》」
 カインはタオルで軽く髪を拭くと意識を集中させて呪文を唱えた。湿っていた髪がふわっと揺れ、次の瞬間には乾いていた。簡単な身だしなみを整えるための魔法だ。よし、とカインは自分の髪を雑に一度梳いた。これは幼い頃から自然に使える数少ない魔法のうちの一つ。騎士団に入ってからは集団行動が基本だったから、こうした些細な魔法を使うこともなかった。今は訓練のつもりで意識的に魔法を使うようにしている。
 欠伸をひとつしたとき、部屋のドアがノックされた。来客にしては遅い時間だ。誰だろうかとカインはドアに向かう。魔法舎にいるのは賢者と賢者の魔法使いだけだから、特に気配も探らずにドアを開けた。
「オーエン?」
 オーエンが寝間着姿だったのにはいささか驚いた。オーエンがカインの部屋を訪れることが、今までなかったわけではないが、寝間着で現れるのは初めてだ。一瞬、小さい方のオーエンかと身構えたが、彼が口を開くと一瞬で答えがわかった。
「部屋、入れてよ」
 他者を忖度しない横暴さと気やすさが同居した物言いはいつものオーエンだ。
「ああ。いいけど……」
 オーエンはカインの部屋に入るとベッドの上に無造作に腰を下ろした。そしてカインが立ったままなのを見ると、ベッドの上を示した。
「座れば?」
「ん? ああ……」
 どちらがこの部屋の主かわからない態度だ。カインはオーエンの隣に座った。
「それで、何の用だ?」
「何の用って、おまえと寝るために来たんだよ」
「寝る……?」
「そうだよ」
 そう言うとオーエンは肩にかけていたショールを畳み、寝間着のボタンを外した。
「ちょ、ちょっと待て。寝るって……どういう……」
 オーエンは不思議そうな顔をした。彼はカインの頬を両手で挟んで掴むと、じっと二色の瞳を見つめた。
「もしかしてセックスを知らないの?」
「それは知ってる! 知っているけど、どうしてこんな急に……」
 よく考えればつい先日付き合い始めたのだから、無縁な話ではない。しかし、今までそういう話題は二人の間に一度も上がっていなかった。
「恋人ってこういうことがしたいんでしょ」
 カインの頭が困惑と疑問で真っ白になっている隙に、オーエンはカインの服を引っぺがし始める。魔法を使ったそれは手際が良すぎた。
「ちょ、ちょっと待て!」
 上半身をひん剥かれたところでカインは声を上げた。声はみっともないほどに上ずっているが、この際それはどうでもいい。
「きちんと話をしよう」
 カインはオーエンときっかり一人分の距離を置いてベッドに座り直すと、彼に相対した。
「オーエンはその……俺とセックスがしたいっていうことでいいのか……?」
 オーエンの寝間着もボタンが半分以上外されていて、その隙間から白い肌が見える。カインは思わず目を逸らした。自分が口にした単語からどうしたってその先を想像してしまう。
「別に」
 オーエンはあっさりと答えた。
「僕はどっちでもいい。おまえは? したくないの?」
 改めて問われるとカインは返事に困った。カインにとって恋愛感情と性的欲求は重なり合うもので、つまりは恋人を抱きたいかと言われたら、それはもう抱きたいに決まっている。

 とはいえ付き合うことになってまだ三日だ。もっと言えば、告白した次の日からそれぞれ別の任務が入ってしまっていたから、恋人として顔を合わせたのはこれが二度目。日数や回数の問題ではないのかもしれないが、それにしたって急すぎる。
「俺は、おまえとそういうことができたら嬉しい。嬉しいけど──」
「じゃあ良かったね」
 オーエンは綺麗に笑った。よく彼の顔に浮かんでいる嫌味とか嘲りはなかった。事実を告げる、透明な表情。はっとするほど魅力的で、ほんの少し不安を掻き立てられる。
 あの夜、告白したときもよく似た顔をしていた。
「待て待て待て! こういうのには順番ってのがあるだろ!」
 流されかけた己の意志を取り戻してカインはオーエンの肩を掴んだ。
「順番?」
「……キスもまだだし」
「そう」
 オーエンは頷くと、カインの腕の間に体を滑り込ませて、ぱくっとカインの唇を喰んだ。
「ん……!?」
 上唇の内側をオーエンの舌先が舐める。驚いて思わずくすぐるようなその舌を、ねじ伏せるみたいに自身のものに絡ませる。
 よくない。絶対によくない。
 理性ではわかっているのに、腹の底から湧き上がってくる衝動が、オーエンから離れることを許さない。
「……っ」
 オーエンがカインの唇を解放する。寂しい、と思ってしまったからもうだめだ。目の前で鏡写しの色をした瞳が三日月の形になった。
「足りない顔をしてる」
 カインは自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ、顔が熱い。窓を開けているはずなのに、ちっとも涼しさを感じない。
「本当にいいのか?」
 これでだめだと言われたらどうしようか。オーエンならやりかねないと思ったら居ても立ってもいられなくなった。答えを聞かずにもう一度──今度はカインの方からオーエンにキスをした。
 口の中の形を確かめるみたいに舌先でなぞる。上顎をくすぐると、背中に回されたオーエンの腕が緩むのを感じた。そのままベッドに彼の体を押し倒す。離れ難いような気持ちで唇を離すと、オーエンは息苦しい顔でカインを見上げている。
「窓……閉めないと」
 カインが照れ隠しのように言うと小さく呪文響いて、窓が閉まる。
「赤ちゃんの騎士様は初めて?」
 揶揄うような笑みは艶やかに見えた。
「男とは……」
「じゃあ僕が抱かれてあげる」
 オーエンの指先がカインの脇腹を撫でた。冷たい指先の感触にぞくぞくする。自分の内側で煮え立つような熱を抑え込むように息を吐くと、カインはオーエンの肌けた寝間着の隙間に顔を寄せた。カインのものより冷たい体温と甘いような香りがする。同時にオーエンの指先がカインの頭を撫でた。髪を梳くような動きは、彼が魔法舎に迷い込んだ猫にやるのとよく似ていた。
 寝間着の間から見える赤い突起をツンと舌で突く。
「んっ」
 オーエンの反応をいいことに口に含んでちゅうと吸い上げるとオーエンの体がぴくりと震えた。舌先で弄んでいるとオーエンの手がカインのうなじを掴む。
「あんまり……乳首ばっかり舐めるな」
 思わずカインが顔をあげるとオーエンは羞恥と快感が混ざったような顔で不満を口にした。唾液に濡れた右側の乳首だけがぷっくりと赤くなっている。それがまた一層淫らに見える。
「悪い……」
 オーエンは自分で寝間着のズボンと下着を一緒に下ろした。臍の下も太ももも、当然ながら初めて目にする。色素が抜け落ちたように白く、肌の下に透ける血管が青い。直視するのは憚られたが──太ももの間にある性器だけが充血して薄赤く染まっていた。彼は体を反転させて、カインに背中の方を見せると薄い臀部に指を伸ばす。
「ここに挿れるんだよ」
 押し広げられたそこも赤い。くちゃっと水音がする。自然に濡れるはずのないところ。つまり、自分で準備してきたのか。オーエンが抱かれるための用意をしているところを想像すると、さらに体が火照る。
 カインが指先で秘部に優しく触れるとそれだけで中が痙攣するように収縮するのがわかった。
「くすぐったい」
「自分で解したのか?」
「そうしないと体、めちゃくちゃになるし。魔法を使えば体の形を変えるのってそんなに難しくない」
 後から思えばオーエンの言動に違和感はあったのだ。それでもカインがそれを聞き逃していたのは、多少理性の箍が緩んでいたに他ならない。
「魔法って何でもできるんだな」
「おまえだって魔法使いだろ──あっ…!」
 指一本はすんなりと沈み込んだ。冷たい皮膚とは対照的に、オーエンの中は熱かった。指を二本に増やして探るように指を動かすと、時折オーエンの背中がびくんと揺れた。
「……っ」
 オーエンの喉が上を向く。指が柔い襞の中にあってほんの少し硬い部分を擦った。悲鳴のような言葉にならない声がオーエンの口から漏れる。
「痛かったり、嫌だったりしたら言ってくれ」
「やめられるの?」
 オーエンがカインの方を振り返って尋ねる。
「……努力はする」
 仕方ないなあという顔でオーエンは苦笑した。
 カインも寝間着だったおかげで、ズボンを脱ぐのは一瞬だった。もどかしい気持ちで布地を押し上げる屹立から下着を剥ぎ取る。オーエンの腰を掴んで臀部を突き出すような姿勢にさせると、空いた穴を埋めるようにカインは自身のものを沈める。
「やっ……っ!」
 オーエンの体が大きくのけぞる。解してあったとはいえ、指とは質量が全然違う。声に苦しいものが混じっていて、カインは半分ほどを挿入した状態で尋ねる。
「大丈夫か?」
 オーエンは黙って首を縦に振った。大丈夫な様には見えなかったが、一方でカインの中では強い衝動が嵐のように暴れていた。もっと深く、奥まで穿ちたいという欲求が体から溢れそうになる。それを必死に抑え込みながら、それでもオーエンの中をゆっくりと貫いていく。絡みつく内襞を広げながら、ほんの少し前後に揺する。精を溜め込んだ性器に圧がまとわりついて、下半身から頭の方へと快感が突き抜ける。
「イキそう……」
 腰を揺らしながら思わずそう言うと、オーエンが甘えたような声でねだった。
「前……触って」
 オーエンのピンク色の性器も芯を持ち始めていた。親指で先の方を刺激すると「ん……」とオーエンの高い声が漏れる。根本の方を掴んで、指先で形をなぞるように扱く。
「あっ…やっ……!」
 腰を打ちつけるとその衝撃で手のひらとオーエンのペニスが強く擦れる。カインの手の中でびくびくと震えながら射精した。イった瞬間のオーエンの顔を見て、カインもオーエンの中で果てた。吐精の刺激でオーエンが顔からベッドに倒れ込む。カインが自身を引き抜くと、精液と潤滑用の──おそらく香油が混じりあったものが、オーエンの太ももを滴った。
「オーエン」
 カインは心配げにオーエンの頬に触れた。そのとき、頬に涙の跡があることに気づく。オーエン自身は濡れた目元に気づいていないように見えた。
「何? みっともない顔して」
 オーエンはそう言うと、荒い息で何度か呼吸した。声が少し掠れている。上半身を起こすと下腹部を右手で押さえる。
「精液も魔法の媒介になるって知ってる?」
 髪や血液が媒介となることは授業で習った。流石に精液が媒介になるとは聞いていないが、推測することは容易い。
「髪の毛や爪、血液と同じく他の魔法使いに奪われないように気を配る。時には腹を割いてでも」
 オーエンは物騒なことをさらりと言う。
「そんなことしなくても、魔法で片付けられるだろう?」
 自分の一部を集めたり消すことは、部屋の掃除よりも簡単だ。カインも魔法舎に来てからやり方を教わった。
「普通はね」
 オーエンはカインに強い視線を向けると居丈高に告げた。
「自分より強い魔法使いとセックスするなよ」
「おまえはいいのかよ」
「とっくに目玉を取られてるだろ」
 それもそうだ。確かにオーエンは元よりカインの一部を握っている。カインにしたって同じことなのだが、たとえ媒介があったとしてもオーエンには敵わない。そうでなければ、オーエンはこんなふうに触れることも体を重ねることも許さないだろう。

§

 それからオーエンはたびたびカインの部屋を訪れるようになった。任務の都合で魔法舎を空けることもあるし、単純にオーエンの機嫌もあるのだろう。それでも週に二度、三度はカインの部屋を訪れ、体を重ねる。
 カインは人並み以上に性欲はあるから恋人に求められて悪い気はしない。ただ、「あれ?」と思うことは増えた。おそらくオーエンは性行為が好きなわけではない。恋人という関係を満たすためだけに、抱かれに来る。
 それに──。
「オーエン」
 カインの下でオーエンはぎゅっと固く瞼を閉じていた。挿入したときの締め付けがいつもより強い。いつも通りオーエンは自分で後ろを解してきていたし、指を挿れる分には問題なかった。
「いっ……」
 嬌声というより悲鳴に近い声だった。
「悪い。今日は止めておこうか」
 そう言うとオーエンは首を横に振った。
「いい。続けて」
「痛いんだろ?」
「痛いのって気持ちいいんでしょ?」
 確かに痛みと快感が完全に不可分でないのはカインも知っている。王都の市場にある評判のマッサージ店は信じられない強さで足裏を指圧してくる。屈強な騎士ですら涙を流すと言われる激痛が襲うのだが、不思議と癖になる者も少なくないようで、彼らに言わせればあの痛みが気持ち良いのだそうだ。カインは一回しか行ったことがないけれど。セックスの刺激もどちらかといえばこの手の痛みに近いものかもしれない。
 それでも、オーエンの顔に浮かんでいるのは痛みによる不快に見えた。それを快感だと思い込もうとするには無理がある。
「痛いのは大丈夫だから」
 何が大丈夫なのかと聞きたい気がした。オーエンはカインを逃さないように、腕を引っ張って自分の方に体を寄せる。繋がったままなので、自然とカインはオーエンの奥を穿つ。
「は……あっ……」
 オーエンの口から漏れる声はやはり苦しげだった。彼は左手で自身の前側を刺激する。痛みを直接的な快感で上書きするように。
 最終的にはカインもオーエンも達することはできた。性器に刺激を与えれば勃つし、射精もする。
 けれど、オーエンはそれだけだ。いわゆる性感のあるところを刺激すれば反応するから不能というわけではないのだろうが、カインと体を重ねる行為に快感を得たり充足を感じているようには見えない。むしろ抱かれるのは義務感のようなものに突き動かされた結果で、それを完遂するために物理的な刺激で達している。
「寝ないの」
 行為のあと、オーエンはそのままカインのベッドに潜り込む。朝になると消えているから、もしかしたら夜中には自室に戻っているのかもしれない。
「おまえは?」
「僕は魔法舎ではあんまり眠らない」
 そういえば前にそんな話を聞いた気がした。
「他の魔法使いがいるから?」
「そうだよ。結界は敷いてあるけど、結界の媒介ごと建物を崩されたらおしまい」
「夜中にそんなことする奴はいないと思うけどなあ」
「いるよ。騎士様が知らないだけで」
 オーエンはこうやってカインのことを時々突き放す。知らない。多分そうなのだろう。オーエンや他の北の魔法使いたちがどうやって生きてきたのかを、カインは知らない。
「嘘だとは思ってない」
 ただ、魔法舎にいる間は、北の魔法使いである前に賢者の魔法使いだと思ってほしいのだ。
 オーエンは瞼を閉じた。本当に眠っているのかはわからない。ただ、眠るような顔で、カインの腕に身を寄せた。どんな瞬間よりもこのときのオーエンが一番優しい。カインは柔らかい彼の髪を撫でて耳元に囁く。
「おやすみ」
 なんだかこれは嘘みたいだなと思った。

§

 初めての夜から三週間近くが経って、カインはこの問題と向き合おうとした。オーエンと話さなければと思いながらも、その場の雰囲気に流されてやることをやっているのだから、自分の意志も大概信用ならない。
 魔法舎での毎日は、舞い込んでくる依頼によって左右される。任務のない日は授業や休息の日、任務があれば賢者と共に調査に向かう。近頃〈厄災〉絡みの依頼は落ち着いたが、魔法に関わるトラブルを解決してほしいという依頼は依然として多い。本来ならば賢者の魔法使いたちの仕事ではないのだが、〈厄災〉の影響ではないか調べないわけにもいかないし、現地で〈厄災〉と無関係だと分かったからといって放り出せる賢者でもない。カインもその点は賢者の気持ちがよくわかる。困ってる人や魔法使いがいたら助けてやりたい。
 そんなわけでカインが任務から帰ってくると、入れ違いで北の魔法使いたちが不在ということが続き、心を決めたものの話をする機会は訪れぬままだった。
 その日は午後からオズによる授業が組まれていた。オズの授業は実践形式の訓練であることがほとんどだ。シノやミチルからは羨ましがられるが、カインとしてはもう少し理論に踏み込んでくれてもいいのにとも思う。もっとも、質問すればオズは口数は少ないながら説明を試みてくれる。
「《グラディアス・プロセーラ》」
 呪文を唱えて、目の前にある小石を浮かせる。今日の訓練は広い場所が必要だからと、魔法舎近くの森で行われていた。
「《ヴォクスノク》」
 オズの呪文と共に視界の端で七色の閃光が舞った。
「集中しろ」
 今日の授業のテーマは意識の集中だった。魔法は心で使う。深くイメージすること、強く心に刻みつけることで強い魔法を使うことができる。それは言い換えれば集中するということだ。
 頬を熱いものが掠める。オズの魔法は決してカインたちを傷つけることはしない。けれど、どうしたって気は散る。それでも外界の気配を遮断し、目の前の小石だけを見つめる。
 そうしているうちにふっと音が遠くなった。雪の日の朝のようにあたりの気配が沈み込んでいく。体と心が分離するような感覚に思わずカインはぎゅっと目を閉じた。
 カタンと小石が落ちて、その音がカインの鼓膜を震わせた。
 オズがちらりとカインに目をやる。アーサーとリケはまだ目の前の小石に集中しているようだった。
「休憩にしよう」
 オズが告げると、アーサーとリケが浮かせていた小石が地面に落ちた。強制的に注ぎ込んでいた魔力の繋がりが切れて、二人の緊張が解ける。
「やっぱり苦手だ」
 カインは凝った肩を回す。意識を集中させる魔法は体の感覚が鈍くなるような気がして抵抗感がある。実戦ならともかく、今日の訓練では外部から攻撃される心配もないはずなのに、集中が深くなると思わず意識を外側へと引き戻してしまう。その点リケは集中するのが上手い。
「前よりは良くなった」
 オズの口調は素っ気ないが褒めてくれているらしい。カインはそれに苦笑を返す。
「ありがとう」
「体の感覚を手放すのが怖いか?」
 淡々とした口調でオズは尋ねた。カインは一度その質問を舌先で転がした。
「怖い……つもりはないんだが……」
 言い訳っぽいなとカインは自嘲する。断言するほど明確な恐怖があるわけではないが、それでもあえて理由を探すなら怖いというべきかもしれない。
 子供の頃から騎士になることを目指して剣術の修練を積んできた。剣を振るうときに己の体をどう動かすべきかを熟知しているし、その通りに体を動かすこともできる。自分の体が己の制御下にあることが当たり前で、そうでないことは不安だった。たとえばそう、厄災の傷によって人や魔法使いの姿が映らないことへの苛立ちに似ている。
「カイン、おまえは体と心が不可分なのだろう」
「不可分……」
「悪いことではない。魔法使いの感覚はそれぞれだ」
「あんたは?」
 オズは言葉を探すようにしばらく黙っていたが、唐突に口を開いた。
「体は小さい」
 偉丈夫と呼んで差し支えない彼がそう言うのはおかしかった。それでも、彼の魔力に比べたら、肉体など小さくて窮屈なのだろう。
 逆に言えば、カインの力はこの身に収まるものでしかないということだ。オズとは比べ物にならないとわかっているが、アーサーやリケと比べてもカインの魔力は乏しい。身の内を焦燥めいたものがちりちりと焼く感覚がする。
 剣の腕ならばカインを凌ぐものはいなかった。それでも自分を特別だと思ったことがない。一定の努力と工夫を重ねればその高みに手が届く。では魔法は? どれだけ修練すれば自分は強くなれるのだろうか。
「おまえの場合、無理に体と心を分かたなくていいのだろう。むしろ……」
 オズは言い淀み、それから首を振った。上手く言葉が見つからなかったらしい。カインが考え込むのを見て、彼は話題を変えた。
「明日は栄光の街に行くのだったな」
「ああ」
 明日も任務は入っておらず、授業の予定だ。しかし、カインは故郷に帰ることにしていたので、オズには授業を欠席すると伝えていた。
「ゆっくり休むといい」
 素っ気ない言葉だったが、オズなりの労いや優しさの滲む言葉だった。カインは「ありがとう」と笑って答えた。

 夕方になって訓練を終え、魔法舎に戻ると、任務から戻ってきた賢者と北の魔法使いたちと鉢合わせた。北の魔法使いたちは──主にミスラとオーエンとブラットリーはなぜか焦げ臭い匂いを漂わせていた。
「どうしたんだ?」
「あはは……。ちょっと色々ありまして」
 カインが尋ねると賢者が言葉を濁す。北の魔法使いの任務は色々あることが多い。
「ミスラが何も考えずに火を付けやがって」
「は? さっさと始末しろって言ったのはブラッドリー、あなたでしょう?」
「だからって考えなしに炎を放つとは思わねえよ。変な匂いがしてただろ。引火性のガスかもしれないって少しは……」
 ミスラとブラッドリーが言い争っている。その二人の後ろではオーエンが不機嫌そうな顔をしていた。ミスラとブラッドリーと同じように服がところどころ燃えていて、頬にも煤の跡が残っている。そして、右腕が真っ赤に焼け爛れていた。
 カインが「大丈夫か?」と声をかけようとした瞬間、オーエンが刺すような目で彼を睨んだ。言葉を挟むことを許さず、干渉を拒絶する瞳だった。オーエンは言い合うミスラとブラッドリーを置いてふらりと消えた。
「痛くないのかなあ……」
 思わずといった風に漏れた声はミチルのものだ。南の魔法使いたちも今日は訓練をしていたらしく、北の魔法使いたちの様子を心配気に窺っている。
 ミチルの疑問はもっともだと思った。普通なら痛みで動けなくなって然る傷だ。魔力が十分なら治癒にさほど時間は掛からないのだろうが、それでも痛みはあるはずだ。意識的にそうしているのか、それとも体質的なものなのかはわからないが、オーエンはおそらくカインと比べても痛みに強い。もしくは、強いのではなく鈍い。
 様子を見に行きたい気持ちはあったが、あの感じだとおそらくは部屋にも入れてもらえないだろう。弱っているところを彼は見せようとしない。そこに踏み込むことは、彼の矜持を傷つけることだとカインもよくわかっていた。

§

「よう。カイン」
 程よいざわめきの奥から明瞭な声が聞こえた。カインはウェイターや客にぶつからないように注意深く声の方に進む。店内の様子は音からしか確認できないが、昼間から飲めるこの店はそれなりに賑わっているようだった。
「レオ! 久しぶり」
 声の方向を頼りに店内を進み、おそらくカウンターの中でグラスや食器が置かれていない席の隣だろうとあたりをつけて声をかけると、肩を誰かが叩いた。すぐに目の前にその人物が姿を現す。カインよりも背が高いが細身で、顔に浮かぶ怜悧な印象を銀縁の丸い眼鏡と癖の強い茶髪で和らげている。思っていた通りの顔が出てきて安堵した。カインは男と抱き合い、背中を叩き合う。
「おまえと会うのはその紋章を見せにきたとき以来だな」
「そうだった」
 レオはカインの幼馴染だ。年はカインの三つ上で、今は栄光の街で医者をやっている。カインがレオと会うのは賢者の魔法使いに選ばれたとき以来だから、もう二年になる。賢者の紋章が現れたとき、カインは真っ先にこの物知りな幼馴染を頼った。
「不義理しやがって」
 彼は乱暴にカインの額を小突いた。
「痛えっての」
 幼少の頃のカインは、街の子供達の間でも中心的な存在だった。剣の腕は街の少年たちの間でも一番だったし、何か遊びをするときも大抵先頭切って他の子供達を引き連れていた。そんなカインとは別の意味でレオは子供たちの間で一目置かれるタイプの少年だった。あだ名は博士。子供が思いつくような疑問にレオは大抵答えを持っていたし、街で起こったあらゆる出来事や噂話にも詳しかった。もっと言えば、「悪巧みをするならレオ味方につけておけ」というのが悪ガキたちの間に広まったセオリーで、レオを自分の陣営に引き入れておけばとっておきの悪知恵を授けてくれる。
 そんな賢いがろくでもない少年が、こうしてカインと飲むときはともかく、普段は立派な医者をやっているのだから時というものは偉大だ。
 店員がカインに飲み物を尋ねる。ビールを一杯頼んで、レオの隣に座る。
「突然連絡が来たから驚いたよ。──なんかあったか?」
「大した話じゃない。ただ、ちょっと相談があってさ」
「おっ。今度はどんな面倒ごとを体にくっつけたんだ?」
 彼は愉快そうに笑う。カインは店員が運んできたジョッキを掴むと肩を竦めた。二人で軽くジョッキを合わせると一口ビールを飲んでから話し始めた。
「医者としてのあんたに知恵を借りたいんだ」
 カインにとってレオは気の置けない友人だが、医者としては信頼も尊敬もしている。そうでなければ体によくわからない痣が浮かんだからといって、彼のところに駆け込んだりしない。
「どうした?」
 レオはやや真剣な面持ちで問いかけた。
「一般的な話でいいんだけど、感覚を上手く捉えられなくなるようなことってあるのか?」
「感覚っていうと具体的には?」
「痛いとか、熱いとか」
 レオはジョッキに口をつけてから答えた。
「病気や怪我で起こることもあるし、精神的な問題の可能性もあるな。あとは老化」
「治療法ってあるのか?」
「まずは原因になってる病気や怪我を治療する。精神的な問題でもそうだ」
「それから?」
「医者にできるのはほとんどそこまでだよ。原因を取り除いても麻痺や感覚の鈍麻が残っているなら、ある程度は付き合っていくしかない。いろんなものを触ったり、動かしたりして改善することもあるけどな」
「なるほど」
「老化の場合、治す方法はない。が、そもそも老化で感覚が鈍くなっていくのは死に向かう準備で自然なことだ」
 そうであるなら、何度でも死ぬことができるオーエンにとってもその感覚が鈍いのは自然なことなのだろうか。死を怖れぬように心と体を離していく。北の魔法使いたちはオーエンに限らずそういうところがある。オズもそうだ。魔法使いの力とは心の強さだ。そうであるなら、不要な感覚を切り捨て、研ぎ澄ましていくことで彼らは力を手にしているのかもしれない。むしろ、肉体の感覚に重きを置く自分の考え方の方が魔法使いとしては未熟なのだろうか。
「とはいえ、俺はほとんど人間の患者しか見たことがないから、魔法使いについて訊いているなら確かなことは言えないけどな。──おまえの目のことを聞かれたら面倒だなと思っていた」
 考え込んでいたカインの顔に驚きが浮かぶ。それを見てレオが悪戯に成功したときと同じ顔で笑った。
「……気づいてたのか」
「医者に必要な能力の一つは観察力だよ。最初おまえと目が合わないから目を悪くしたのかと思ったが、挨拶をしてからは問題なく視線が俺の方を向いていた。それなのに注文を取りに来た店員のことはやっぱりよく見えてなさそうで、そのくせテーブルに置かれたジョッキやメニューは問題なく目で追っている」
 相変わらず目敏い。〈大いなる厄災〉との戦いで負った傷のせいで、カインは触れるまで人間や魔法使いの姿が見えないのだ。このことは魔法舎の関係者しか知らない。これはカインの明らかな弱点で、公にしても良いことはないという判断だった。レオにどう説明したものかと口篭っていると、彼は手をひらひらと振って店員を呼ぶ。
「魔法の世界のことなら流石の俺でもどうせ分からん」
 レオはあっさり告げると、空になったジョッキをカウンター越しの店員に渡して次の酒を注文した。彼らしい気遣いだった。
「それより、魔法舎にはそういうのに詳しい奴はいないのか?」
「いないことはないんだが……」
 医者というならフィガロに訊いたってよかった。ただ、今のところカインとオーエンの関係は誰にも明かしておらず、察しの良い彼に話をするのはどうにも気が乗らなかった。さらに言えば、オーエンはフィガロのことを警戒している節があるので、万が一余計な相談をしたことがバレたら本気で怒らせかねない。そんなわけでカインは全く無関係な第三者であるレオを頼ったのだった。
「俺にするなら恋愛の相談にでもしておけ」
「ぶっ!!」
 カインは飲みかけたビールを思わず吹き出してそのまましばらく咽せた。それを見ていたレオの目が面白いものを見つけたという様に光る。
「へえ……そういうことか」
「なんだよ……」
 カインは唇を尖らせた。
「いや、おまえも楽しそうで良かったなと」
 レオの手がカインの背中をバシバシと叩く。
「俺で面白がるなよ」
「悪い。でも、本当に前に会ったときよりいい顔してるよ」
 レオは何かを見極めるように目を細めて言った。彼と最後に会ったのは、騎士団を追い出され、賢者の魔法使いとして魔法舎を訪れる直前だった。
「俺が侍医を辞めたときのことを覚えているか?」
「ああ」
 レオは王都の医学校を首席で卒業して、そのままグランヴェル城に出仕していた。城にいる医師たちの仕事は、侍医として王族の健康状態を管理することや新しい薬や治療法の研究だった。中央の国の医師としては誰もが羨むようなエリートコースだ。その頃すでに騎士団にいたカインは、年上の幼馴染が別の形ではあれ、中央の国のために共に力を尽くす仲間に見えた。だからこそ、レオが王城付きの侍医職を辞めて故郷に戻ると言ったのを、カインは引き留めたのだ。
「あの頃のおまえは騎士団長に任じられたばかりで、全身から自信とか誇りとかそういうものできらきらしてて、鬱陶しいくらいだった」
 発言こそ露悪的だが、口調には親しさが込められていた。
 レオを慰留するためになんと言ったのかカインは覚えている。確か──「この国はおまえを必要としているよ」と、そう言った。
「カイン、おまえの言うことはいつだって正しい。俺だってあのままグランヴェル城で働いていた方が国の役にも立つし、俺自身の腕も知識も磨けた。おまえみたいに王家と国家に忠誠を誓うべきだったろう。だけど、別に俺は正しいことがしたかったわけじゃないんだ」
「今ならわかると思う」
 カインはそんな風に言うことができた自分に少し驚く。昔の自分は頑なで、多少傲慢だった。
「おまえが忠誠を誓うこの国では、どれだけ尽くしたって魔法使いは要職につけない。当然大っぴらに言う奴はいないがアーサー殿下を廃嫡すべきだと言う者も城には多い。王妃殿下の周りを見てると特に、な。だから、おまえの正しさは盤石な基盤の上にあるんじゃなくて、もっとふわふわした常識とか価値観の上にとりあえず立てたものでしかないんじゃないかと俺は思ってた」
「レオは俺を正しいと言うけど本当に正しかったら、人間だなんて偽らなかったさ」
 だからカインはレオの言うところのとりあえず立てた正しさを信念にしてきたのだ。それが間違っていたとは思わない。ただ、それだけでは出会えなかった人や魔法使い、得られなかった経験があることも知った。
「おまえは騎士に戻りたいだろうからこう言ったら不満かもしれないが、賢者の魔法使い、結構似合ってると思うぞ」
 初めは騎士として国を救うことと、賢者の魔法使いとして世界を救うことは似たようなものだと思っていた。少なくともカインには騎士としての実績と実力があったから、後者もうまくやる自信があった。実際は、魔法使いとしての自分の実力は赤ん坊のようなものだし、賢者の魔法使いたちはとにかくまとまりが悪い。
 魔法使いの世界にはカインが知らないものがたくさんあった。長く生きてきた魔法使いたちの考え方には驚くことが多い。そして、自分が一番強くないということが初めは新鮮で、今は少し焦りがある。
 その全てはある日突然カインの目の前にやってきた。カインの周りにあった常識と日常を完膚なきまでに破壊して、カインを未知の世界に連れ出した張本人。
 心なしか左目が疼く。何もかもがめちゃくちゃな恋人のことを思い出したところで、まるで心でも読んだようにレオが話を戻した。
「それで、もう付き合ってるのか?」
「付き合っては……いる……けど」
 レオは口笛を吹いた。
「美人?」
「それはもう」
 おもちゃにされるんだろうなと思いながらカインがやけっぱちで答えると、レオは楽しそうに笑った。

§

 レオと別れ、実家に顔を出してから魔法舎に戻ると、すっかり夜が更けていた。少し迷ったが、カインはオーエンの部屋のドアをノックする。深夜に訪れるのは無作法だが、タイミングを逃す前にきちんと話がしたかった。
 ドアが小さく開く。そこから顔を出したオーエンは、来訪者が誰なのか扉を開ける前にわかっていたようだった。
「入って」
 囁くような声で言われて、カインはドアの隙間から体を滑り込ませた。
 オーエンはいつもの服装だったが、ジャケットは羽織っておらず、ネクタイもしていなかった。いつも着ているスーツのジャケットはハンガーにかけられている。
「夜遅くに悪い。昨日の怪我は大丈夫だったのか?」
 オーエンは右袖のカフスボタンを外すとシャツをたくし上げた。そこにあるのは真っ白な、傷ひとつない滑らかな皮膚だ。それをカインに示してから投げやりともいえる口調で告げた。
「あんなの、どうにでもなる」
「良かった」
 安堵するカインにオーエンは窺うような視線を向けて、それからベッドの上にどすっと乱暴に腰を下ろした。
「それで──するの?」
「しない!」
 思わず大きな声が出た。カインは一度深呼吸するとベッドの向かいに置かれたソファの上に座る。
「悪い……。今日はおまえときちんと話がしたくて来たんだ」
「なに?」
 動揺したせいか一瞬真っ白になった頭を振ってからカインは話し始めた。
「俺はおまえのことを大事にしたいんだ。だから……その……嫌ならしなくていいんだ」
 オーエンはカインの言葉がよくわからないという顔をしている。
「恋人ってそういうことがしたいんでしょ」
「したいけど、そうじゃないくて……」
 上手く言葉が伝わらないことがもどかしかった。けれど、それを埋めていくことでしかきっとオーエンと繋がれない。それとも繋がりを持てると思っていることすら傲慢なのだろうか。
「俺はオーエンに触れていると気持ち良くて、満たされた気持ちになる。おまえにもそうであってほしいんだよ。そうじゃないなら無理に触れたくない」
「それって、そんなに大切なこと?」
 オーエンは単純な疑問を口にするように言った。
「少なくとも俺にとっては」
「わからない」
 しばらく右手の手のひらをじっと見てからオーエンは答えた。
「僕は誰に触れられても気持ちいいって思ったことはないし、満たされた気持ちにもならない。でも生きてこられた。ねえ、それって本当に必要なもの?」
 カインとオーエンの間には一歩分の距離しかない。それでも、ずっと遠くに感じる。それはあの告白した夜と同じ感覚だった。遠いところにある魂に触れたいと手を伸ばす。
 オーエンはぽつりぽつりと心情を溢す。
「前に聞いたことがある。痛みや苦しみは生きるために必要な機能だから消すことはできないって。夢の森に行くとわかる。生きることは痛みと苦しみを感じることだ」
 そうじゃない、と答えることがカインにはできなかった。オーエンの中にある世界は確かにそういうものでできているのだろう。嘘や偽りではなく。だから──。
「必要なものかどうか確かめてみないか?」
 それは、祈りにも期待にも似ていた。
 カインが歩んできたのはたったの二十年と少しの時間。それでも、そこにはカインが得てきた経験も地位も誇りもあった。全てオーエンによって瞬く間に破壊されてしまったけれど。
 オーエンはあたかも春の初めに吹く強い風のように容赦がなく、鮮烈だった。カインが望んでいることはそれと同じくらい乱暴なことだと思う。それでも、これは復讐ではなく祝福でありたい。
「オーエンの世界になかった感覚を、一緒に探してみたいんだ」
 たっぷり時間をかけてもオーエンは首を縦にも横にも振らなかった。ただ戸惑った顔をしている。本当に困っているときの顔だ。
「抱きしめていいか?」
 カインがそう言うとオーエンは小さく頷いた。混乱の最中にわかりやすい問いかけをされて思わず頷いたような反応だった。
 オーエンの座っているベッドに腰を下ろして彼の体を抱く。頭が腕の中にぴったり収まった。シャツ越しにオーエンの背中を撫でると胸の辺りで彼が吐いた息を感じた。
「これってなに?」
「なにって言われると困るけど……。優しくしたいと思ったから」
「なにそれ」
 オーエンが笑った気配がした。
「悪くはないだろ」
「悪くはない。騎士様はちょっと暑苦しいけど」
「えー。そうか?」
「夏だからね」
 カインの腕の中でオーエンが呪文を囁く。ささやかに精霊たちに命じると、部屋の中に涼しい風が柔らかく吹いた。少し寒いくらいの中で、腕の中のオーエンはぬるく感じる。こんなに近くにいるのに分かり合えないことがある。
「いいよ」
 しばらくカインの腕に抱かれてから、秘密を明かすみたいにオーエンはそっと口を開く。
「多分僕には騎士様のことがわからない。騎士様も僕のことはわからないと思う。それでもきみが僕の何かを知りたいなら──」
 オーエンの手がカインのネクタイを掴んだ。乱暴に引っ張ると、瞳に自分の顔が映っているのがわかってるくらいの距離で告げる。
「覗いてみればいいよ」