第六章 白亜の海
目を覚ますと見知った天井が見えた。眠りに落ちた記憶がない。弾かれたように跳ね起きると部屋の主はソファの上にいた。
「おはよう、オーエン」
「僕……」
カインの表情を見れば何が起きたのかはわかる。
「また馬鹿みたいな僕になってたの」
「夜も遅かったから、すぐに眠ったよ」
大切なことを話していたはずだった。それなのにこんなふうに溢れ落ちて行く。
頭も体も重かった。昨夜はこの体の怠さすら愛しく思えたはずなのに。
「オーエン、俺は……」
カインが何か言いかけたそのとき、部屋の扉をノックする音が聞こえる。
「カイン、起きてますか?」
賢者の声だ。普段のカインならば迷うことなくドアを開ける。しかし、カインはオーエンを前に迷っているようだった。窓の外を見ればすっかり日が昇っている。いつもの彼ならとっくに起きて、魔法舎の周りを軽く走って、なんなら朝食も済ませている時間だろう。
オーエンが目覚めるまで彼は部屋の中で待っていたのだ。小さいオーエンは置いていかれることをひどく嫌っているらしいから。
「……僕のことなんて気にしなくて良かったのに」
「おまえを一人にはしないよ」
「一人にしたら何が起きるかわからないもんね」
カインは居留守を決め込むことにしたようだった。そのことが一層オーエンの逆鱗に触れた。
「出ればいいだろ!」
オーエンはそう言うと魔法を使ってカインを部屋から追い出した。それからオーエン自身もカインの部屋を離れた。
むしゃくしゃする。
〈大いなる厄災〉によってつけられた傷は、オーエンにとって恥ずべきものだった。カインや賢者の話を聞くところによると、オーエンの中にいるもう一人の自分は相当馬鹿で無垢で、そのくせ他者を傷つける術を持っている。
それに何より辛いのはオーエン自身が、傷の人格になっているときは、そのことを認識できず、覚えてもいないことだった。昔のことを思い出して苦しくなるのも嫌だったけれど、それでも痛みを感じているオーエン自身はここにいる。けれど、厄災の傷は違う。ここにいるオーエンに痛みすら感じさせてはくれないのだ。
戦うことさえ許されないことがオーエンにとっては何より辛い。それは最初から負けていることと同じだ。
§
「オーエン」
「何?」
「任務じゃ。来てもらうぞ」
オーエンは中庭にいた。猫が一匹、オーエンの膝の上で昼寝をしている。賢者が言っていた最近この魔法舎に出入りしている新入りだ。
「嫌だ。気分じゃない」
オーエンを探しに来たホワイトに向かってオーエンはすげなく答えた。
「そうわがままを言うでない」
ホワイトはため息をついた。それから口元に嘲笑めいたものを浮かべた。
「従わされるとわかっているのに反抗するのは愚かだと思わぬか?」
ホワイト一人ならオーエンは勝つことができる。けれど、ホワイトの後ろにはオーエンが及ばない力の持ち主がいるのだ。
「幽霊ごときが」
オーエンが吠えるとホワイトは鼻で笑う。オーエンの膝下にいた猫は「ニャーッ」と唸るような声をあげてどこかへと走り去ってしまった。
「良い子にしているならご褒美くらいはくれてやろうぞ」
北の魔法使いたちの任務は討伐依頼だった。北の国に現れた凶暴な魔法生物を狩ること。北の魔法使い相手にややこしい任務の依頼は少ない。根負けしてさっさと帰ろうとするからだ。特に賢者が不在のときはこういうわかりやすい任務ばかりだ。魔法生物は北の魔法使いたちにかかれば難敵ではなかったが、数はそれなりに多かった。
「殺した数で競争しましょう」
「何を賭ける?」
ミスラの言葉にいち早く乗ったのはブラッドリーだった。
「マナ石を、一番が多く倒したひとが総取りでどうですか?」
「腕が鳴るのう」
「血が沸き立つのう」
「ジジイどもも参加するのかよ」
ブラッドリーは辟易とした顔をした。
「オーエンはどうしますか?」
正直なところ気乗りはしなかった。昨日の今日で体は怠かったし、気分も悪い。それでも、売られた勝負を買わない理由がない。
「乗ってあげる」
オーエンは手袋を直すと勝負勝つために箒を翻した。
「負けてたまるか」
ブラッドリーがミスラが、そしてその後ろから双子が続く。
「《アルシム》」
ミスラの魔法が大地を抉る。数十頭の魔法生物が大地と一緒に蒸発した。
「あれはズルいだろ」
ブラッドリーのぼやきを背後で聞きながらオーエンは地上に向かって落下するようなスピードで滑空する。
「《クーレ・メミニ》」
オーエンの使った魔法はミスラのものより地味だったが効果的ではあった。魔法にかけられた魔法生物たちは互いに殺し合いを始めた。オーエンは血溜まりを踏みしめながら魔法をかけていく。
「オーエンちゃん、えげつなっ!」
うるさい。なんとでも言えばいい。
オーエンの気持ちは高揚していた。思う存分力を振るうのは興奮した。
「《クアーレ・モリト》」
魔道具のトランクを開け放つと、飼い犬が餌を求めて暴れ狂う。死にかけた生き物はうってつけの餌だった。
「あはは」
いつの間にかオーエンの口から笑い声が漏れる。なんて、楽しい。
けれど、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。簡単なことだ。北の魔法使いたちによって獲物は狩り尽くしてしまったのだ。
「だから俺が一番じゃないですか」
「どれだけ殺したか証明できないだろ?」
誰が一番多く討伐できたかという競争は、確かな判定方法がないという点で欠陥があった。馬鹿馬鹿しい勝負だったぜと嘯くブラッドリーと、体よく仕事を押し付けただけの双子は早々に勝負から下りたが、ミスラとオーエンは譲らなかった。
「それなら俺たちが戦って決めればいいじゃないですか」
「望むところだ」
ミスラに向かって魔道具を構える。
「《クアーレ・モリト》」
先に動いたのはオーエンだ。トランクから飛び出したケルベロスがミスラに襲いかかる。
「《アルシム》」
ミスラは空間の扉を開いて軽やかに追撃を交わしながら移動する。
認めたくない事実だが、単純な魔法の出力で言えばミスラはオーエンの上をいく。だからこそオーエンは自分のアドバンテージのある勝負に引っ張り込まなければいない。
例えば──。
「《クーレ・メミニ》」
オーエンは魔法で細いレイピアを形作ると、ミスラに迫る。
「ちょこまかと鬱陶しいですね」
ミスラの魔法は基本的に大雑把だ。ゆえに近距離の間合いになると攻撃のバリエーションが減った。不用意に魔法を使えば自分にも影響があるからだ。ミスラもそれをわかっているからか、空間転移を重ねて有利な間合いを作ろうとする。
「ちっ」
それを邪魔するのがケルベロスだ。
「《アルシム》」
ミスラはケルベロスの足元に空間の扉を開く。
「《クーレ・メミニ》」
ミスラの魔法が発動する一瞬前にオーエンのトランクがケルベロスを飲み込む。
ミスラと戦うのは楽しかった。自分自身の感覚が研ぎ澄まされていく。視界が明るくて、音がよく聞こえた。肌を切る風が気持ちいい。
西の国で食べたパフェは美味しかった。カインと見上げた夜空は美しかった。彼と眠った夜は安心できた。それでも、それだけでは得られない喜びがここにある。生きている実感。生きていて良いのだという確信。
オーエンはミスラとの距離を詰める。七歩、五歩、三歩。そしてゼロ距離。
「死ね」
どれだけ誤魔化してみても自分の本質は変えられないのだ。心のうちに燃え盛る炎が体を焼き尽くすように広がる。そう、負けるつもりはない。そのためならどんなことだってやってみせる。
オーエンのアドバンテージ。それは何度でも死ねることだ。
「《クアーレ・モリト》」
閃光が爆ぜた。
「あんたら本当にタチ悪いな」
安全地帯からライフル用の照準器を通してミスラとオーエンの戦いを眺めながら、ブラッドリーは口の端を吊り上げて言った。
「えーなんのことかのう」
「とぼけるなよ。最初からこのつもりだったんだろう?」
勝負を言い出したのはミスラだったが、彼が言い出さなければスノウとホワイト自身が提案したのだろう。別に勝負じゃなくてもなんでもいい。とにかく、この何もない北の国の広い大地でミスラとオーエンを殺し合わせる。
「最近機嫌が悪そうだったからの。事前のケアじゃよ」
「この間みたいに魔法舎を壊されては敵わん」
つまるところ最初からミスラとオーエンの鬱憤を晴らさせるための任務だったというわけだ。
「勝負あったな」
ブラッドリーはそう言うと照準器をコートのポケットに仕舞った。
「あああああ!」
体を動かそうとしてあまりの痛みにオーエンは絶叫した。それでも視界にミスラの姿をとらえる。彼は地面に叩きつけられていた。しかし、ふらふらと立ち上がるとオーエンの方に向かって歩いてきた。左肩のあたりが真っ赤に染まっている。右手には自分の左腕を持っていた。
「痛いじゃないですか」
ミスラはオーエンの側にやってくるとオーエンの血まみれの腹部を踏んだ。
「空間の扉であなたの足を引っ張ってよかった」
ミスラの眼前に迫ったオーエンは文字通り足を引っ張られた。贅沢な空間転移魔法の使い方である。オーエンの右足だけをわずかに転移させてずらす。そうして引っ張られた足が千切れるより先に、オーエンの魔法が発動した。ほんの少しの距離の差がミスラを救った。
オーエンにはもう右足の感覚がない。ゲホッと真っ赤な血を吐いた。鮮血を吐くのは動脈が傷ついた証拠で、こうなるともう長くは保たない。
「俺の勝ちです」
オーエンを足蹴にしてミスラは高らかに宣言した。彼は子供っぽく笑う。
「……たくない」
「なんですか?」
ミスラは足を退けると、オーエンの口元に耳を寄せた。
「しにたくない」
「あなた死んでも生き返るじゃないですか」
それでも、死にたくない。
なんでそんなことを思うのかオーエン自身もわからなかった。早く死んで楽になりたいのに、死んだ方がいいってわかっているのに。それなのに、この口は「死にたくない」と訴えかける。
だって、カインがこの体で生きていてほしいと願ったのだ。
体が凍るように冷たくなっていく。出血を止めたいのにうまく魔法が使えない。声が出ないし、体を巡る魔力の感覚も乏しい。一番良く手懐けられる北の精霊たちの声がよく聞こえない。
「まあ、いいですよ。フィガロのところに連れていくまで頑張ってください」
ミスラが面倒臭そうに呪文を唱えるのを聞いて、オーエンの意識は深い闇の中に落ちていった。
§
小さいオーエンになってしまう前に、オーエンは何か大事なことを言おうとしていた。それはきっとカインが聞かなければならないことだった。
「すみません手伝ってもらっちゃって」
「いや、今日は予定もなかったから大丈夫だよ」
カインは賢者のために書類を読み上げていった。魔法舎の運営の費用は主に中央の国の国庫から支出されている。これでも魔法管理大臣のドラモンドに掛け合って随分減らしてもらったのだが、それでも賢者によって決裁されなければならない書類は山のようにあった。賢者はこちらの文字を読めないから、必然的に誰かがサポートする必要がある。それはクックロビンであったり、賢者の魔法使いであったりする。カインは騎士団長時代にこの手の書類とは散々格闘してきたから、クックロビンがいないときはこうして賢者の部屋に足を運んで彼の仕事を手伝うことが多かった。
最後の書類の内容をカインが読み上げて、賢者が印を押すと、二人揃ってふーと大きなため息をついた。
「お疲れ様でした」
「賢者様もお疲れ様。お茶でも入れようか」
「俺も手伝います」
「まあまあ。休んでいてくれ。お茶を入れるのは俺の特技だからさ」
彼の腕前は賢者もよく知っていたから彼の言葉に甘えることにした。カインは丁寧な手つきでティーカップに紅茶を注ぐと賢者と自分の前にそれを置いた。
「朝はすみませんでした」
「ああ、いや……こっちこそすぐに出られなくて悪かったよ」
オーエンによって強制的に部屋の外に出されたせいで、思いっきり動揺した顔のまま賢者と対面した。聡い彼が何も気づいていないということはないだろう。あえて何も聞かないでいてくれているのだ。
「そういえば西の国はどうだった?」
それなのにわざわざオーエンに繋がる話題を振ったのは後ろめたさと、いっそこのもやもやとした感情を吐き出してしまいたいという欲求の表れだった。
「すごく楽しかったですよ」
「それはよかった」
「オーエンも元気がないのかなって思ってたんですけど、楽しそうでした」
賢者の言葉にカインはほんの少し口籠る。自分で話題に出して気まずい顔をするなんて何をやっているのだろうと思ってはいるのだが。
そのときだった。突然目の前に誰かの気配が現れた。カインがまだ触れていない誰か。鼻をつく血の匂い。そして、カインの目にはぐったりとしたオーエンの姿だけが見えた。
「賢者様。フィガロっていますか?」
ミスラの声がする。
「ミスラ、これ──何があったんですか!?」
賢者は慌てた声でミスラに尋ねる。北の魔法使いたちは北の国へと任務に行ったはずだった。双子に言わせれば、大したことはない任務に。
「オーエンが死にたくないっていうのでフィガロに見せてやろうと思ったんです」
カインはオーエンに駆け寄る。言われなければ死んでいると勘違いしてもおかしくない姿だった。白いスーツは酸化した血でどす黒く染まっている。腹部に酷い傷があるのが見えた。右足は変な方向に捻じ曲がっていて、辛うじて体にぶら下がっていた。
「フィガロを呼んでくる」
カインはそう言って賢者の部屋を飛び出した。
「これ、もう死んだ方が早いでしょ」
オーエンを見たフィガロは開口一番に告げた。ミスラは不機嫌そうに答える。
「俺もそう言ったんですけど」
フィガロは肩をすくめるとオーエンに向かって声をかけた。
「オーエンどうする?」
「……やだ」
譫言の様にオーエンは何度も嫌だと繰り返す。
「フィガロ先生」
訴えかけるように言ったのはルチルだ。フィガロは賢者とカインを見て、自分の味方がミスラしかいないことに気がつくと、はーっと息をついた。
「……あんまり期待はしないでね」
フィガロに言われてオーエンをフィガロの部屋に運んでからも、カインは気が気じゃなかった。
事の経緯はエレベーターで魔法舎に戻ってきたスノウとホワイトの口から知ることができた。ミスラとオーエンが戦って、結果ミスラが勝った。
「でもまさかこんなことになるとは我も思っておらんかった」
「死にたくないなどと、何があったことやら」
オーエンは死ぬことに抵抗はない。苦しむくらいなら楽になりたいと口にするし、実際に死ねば傷ひとつない体で生き返るのだ。それなのに死にたくないと訴える。
カインには思い当たる節があった。だって彼がオーエンに死んでほしくないと言ったのだ。それを聞いて、オーエンは意味がわからないという顔をしていたし、素直にカインの望みを聞き入れるような男ではない。それなのに、オーエンは「死にたくない」と口にした。
「どうして……」
オーエンに問い掛けたくてしょうがなかった。けれどフィガロはオーエンを魔法で眠らせると、カインのことも自分の部屋から追い出した。カインにできることは待つことだけだった。
「とりあえずできることはしたよ」
フィガロはオーエンの治療を終えると疲れた口調でそう言った。長い時間のように感じたが、時計を見ればほんの二時間程度だ。
「もともとオーエンくらいの魔力があれば病気や怪我は自力で治すことができる。致命傷を負って魔力の方が先に枯渇すればどうしようもないけどね。オーエンはそうなりかけてた」
自室のベッドに寝かされたオーエンは眠っていた。顔色は酷いものだったが、呼吸が思ったよりも穏やかなことに安堵する。
「止血して、魔力が巡るように促して。あとは体の傷を治すだけの魔力が回復するかどうかの勝負」
フィガロは口元に苦笑を浮かべる。
「本当に馬鹿な子。死ねばこんな酷い目に遭わなくて済むのに」
フィガロの言いたいことはよくわかる。死んでしまえば数刻も経たずに蘇ることができるのに、生き続けることにこだわる必要はない。自分の告げた無責任な言葉がカインの胸を刺す。
オーエンはそれから丸三日眠り続けた。二日目にはフィガロも「あとは回復したら勝手に目覚めるよ」と無責任なことを言った。実際、日に増しオーエンの顔色はよくなって言ったし、包帯の下の傷も癒えつつある。
四日目にオーエンが目覚めたとき、カインはちょうどオーエンの部屋にいた。すぐに目覚めないことはわかっていたのだが、暇があればカインはオーエンの部屋に足を運んでいたのだ。
オーエンが瞼を開くのを見て、カインは思わず大声を上げる。
「オーエン!」
オーエンはカインではなく、部屋の天井をぼんやりと見た。それから、何かに怯えるような顔になって呪文を唱える。
「《クーレ・メミニ》」
それがなんの魔法なのかカインにはわからなかった。けれど、魔法を使った瞬間、オーエンは糸の切れた操り人形みたいにぱたっと再び意識を失った。
カインは慌ててフィガロを呼びに行く。
「目が覚めて魔法を使った?」
自室から半ば強引に引っ張り出されたフィガロは面倒そうにそう尋ねた。
「ああ」
一階から五階へと階段を上る。飛ぶようなカインの足取りとは対照的にフィガロの足取りはカインに比べて重い。
「そんなに急がないで」
「悪い」
口では謝ったがカインの気が急っていて、思わず駆け足に近い速さで階段を上っていた。
五階のオーエンの部屋。そこに辿り着いたとき、フィガロは目を細めて「ああ」と口にした。
「そういうこと」
「どういうことなんだ?」
「悪いけどオーエンのことはきみに任せた。あとはとにかく寝かせていれば治るよ」
フィガロはカインの怪訝を通りこして不審を浮かべた顔に気づくと、ため息をついてから説明する。
「オーエンが使ったのは一種の結界だ。守るというよりは隠す類のやつ」
「結界?」
「そう。きみは部屋の中にいたから影響されていないんだろうけど、俺にはここにオーエンの部屋があることがよくわからなかった」
「よくわからない?」
「ああ。見えているはずなのに、見えない。きみの視界と一緒さ」
カイン以外はオーエンの部屋がそこにあるということに気づけないということらしい。
「なんでこんな魔法を」
「きみはわからないか。あのね──北の国で弱ってる魔法使いがいたら間違いなく食い物にされるよ。文字通りね」
フィガロの口元には酷薄な笑みが浮かんでいた。
「他の魔法使いに気取られないため?」
「そう。魔力が十分ならまともな結界も張れるだろうけど、相当弱ってるならこの程度が限界だ。実際この魔法を使って昏倒しちゃったんでしょ」
カインの表情を見て、フィガロは慰めるように続けた。
「ほとんど身を守るために反射で使った魔法だと思うよ。多分目覚めた瞬間はきみがいることも、ここが魔法舎だってこともよくわかってなかったと思う」
北の国の風景を思い出す。雪と氷に覆われた場所。死に近い世界。
「そうやって生きてきたんだ」
たった一人で。
「そういうところはほんと変えられないよね」
フィガロの言葉はオーエンを指すようでも、他のものを指すようでもあった。
§
オーエンが目覚めると、カインがいた。自分を見る顔が泣きそうなので笑ってやった。
「僕、生きてる?」
「生きてるよ」
なんだか頭がふわふわした。額に濡れたような感触がある。
「体も頭も痛いし、なんか熱い」
「熱があるんだよ。回復傾向だってフィガロが言ってた」
額に載っていたのは濡れたタオルのようだった。カインの手がオーエンの額に触れる。冷たくて気持ちがいい。
「おまえ何があったか覚えてるか?」
「ミスラと戦った」
心が高揚した記憶と、敗北の苦い記憶が同時に蘇ってきた。それから──。
「死にたくない、って言ったの覚えてるか?」
「……うん」
どうやらこの体は案外丈夫らしい。
「なんでおまえが泣くんだよ」
「……泣いてない」
「すぐバレる嘘をつくな」
カインの瞳から涙が溢れていた。手を伸ばそうとするけれど、布団から腕を伸ばしたところで疲れてしまった。その手をカインが握る。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「俺はオーエンを守りたくて、死ぬような目に遭わないでくれたらと思っていて」
「知ってる」
オーエンだってそれはわかっている。なぜだかカインはオーエンが傷つかなければいいと思っている。
「でも、できないんだよ。だって、負けたくないんだ。負けないためには戦い続けないといけない」
負けることが、勝負から逃げることが怖い。死ぬことよりも、そしてカインに失望されることよりも。
以前カインに聞かれた問いのことを思い出す。魔法を使うときの感覚。その答えがふと脳裏に浮かぶ。
「炎が心の中を埋め尽くす感じ。動物は炎を恐れるけど、それすらも恐れず従えたいという情熱が、僕にとっての魔法なんだ」
「オーエンってさ……強くて、格好いいな」
「そうだよ。僕は強くて怖い北の魔法使いなんだ」
胸を張りたかったけれど、そこまでの元気がない。これって本当に大丈夫なんだろうか。オーエンはフィガロのことを素直に信用し難い。
「じゃあさ、なんで死にたくないなんて言ったんだ」
「わからない?」
困惑するカインを見て、オーエンはふわふわと笑った。
「わかんなくていいよ。別に」
ただ、カインが触れたこの体で生きてみたいと思っただけなのだ。それ以上でもそれ以下でもなくて、その願望だけでこんな馬鹿なことができる。
体を休めてさらに三日経つとオーエンは全快した。
「それで、どうしてこんなことに?」
スノウの質問にオーエンは答えなかった。オーエンにだってうまく説明ができない。そうしたかったからとしか言いようがない。体の調子は上々だが、食堂でスノウとホワイトに詰問されてオーエンの機嫌はすっかり低空飛行になっていた。
「これに懲りたらもう少し大人しくしておるんじゃな」
「はいはい」
オーエンは二つ返事で答えた。
「本当にわかっておるのかのう」
ホワイトは疑わしげな顔でオーエンを覗き込む。失礼な。オーエンだってもうあんな思いはしたくない。
「一週間休んでいた分働いてもらわねばな」
「は?」
オーエンがスノウの言葉に眉を吊り上げると、賢者がおずおずと発言した。
「以前中央の魔法使いの皆さんに調査してもらった件で……。詳細はカインに聞いてください」
そう言われて食堂を追い出された。
「サボっちゃおうかな」
天気もいいし、ずっと眠っていたから魔法舎の外の空気が吸いたかった。
「今の今叱られてサボるなよ」
お目付役が目の前にいた。
「騎士様も災難だね」
「そうでもないぞ」
カインは手のひらに握っていたものをオーエンに渡した。いつかカインの部屋で見かけた貝の化石だ。あのときよりもさらに磨かれて、光沢のある表面は光にかざすと虹色に光る。
「任務って?」
「化石を捕まえるんだよ」
オーエンはにやっと笑って答えた。
「それってとっても退屈そう」
§
地質研究所を訪れると「お待ちしていました」と以前カインが訪れたときと同じ研究員の青年が出迎えた。すっかり日が暮れているからだろう、研究所に残っているのは彼だけだった。
「今日はお二人ですか?」
「ああ」
カインは案内役の青年と握手をした。
「手紙で確認した通り、満月の日は毎回動き出すんだったよな?」
「はい」
〈大いなる厄災〉の影響で、保管している化石が動き出す。この依頼を解決するのがカインとオーエンに与えられた任務だった。
「じゃあそれを確認したら浄化を始めよう」
「わかりました」
それから青年は不安そうに尋ねた。
「クジラの件は……」
「大丈夫。これを代わりに埋め込むから」
スノウとホワイトが用意したのは特殊な鉱石だった。強度は十分だし、マナ石と似たような光り方をするから置き換えるのにちょうどいいだろうとのことだった。カインは砕いた鉱石の入った瓶を振ってみせる。
「よかった」
青年は安堵の声を漏らす。
カインが会話をしている間、オーエンは保管庫とホールを行き来した。夜なので室内は暗い。アルコールランプの灯りだけが頼りだ。カインが言っていた通り、古い化石が並んでいる。そのどれもがオーエンよりも長い年月地層に眠っていたものたちだ。永遠にも似た長い年月をかけて、生き物は骨になって岩石になる。海は陸地になって星すらも動いてゆく。
「オーエン」
「準備はできたの?」
「ああ」
今回の任務、オーエンはあくまでもカインのサポート役だ。化石からマナ石の欠片を除去して〈大いなる厄災〉の影響を払う。そのための方法を、カインは双子とオズから教わっていた。
「来ました」
青年が声を上げる。
それはまるでパレードのようだった。夜の海を魚が、クジラが体を揺らして踊っていく。四本足の生き物が、地面を蹴っている。奇妙な光景に二人は一瞬目を奪われた。
「それじゃあ儀式を始めるよ」
カインは深呼吸をしてから呪文を唱えた。
「《グラディアス・プロセーラ》」
魔道具の剣を頭上に翳す。くるりと手首を返す。まるで旗手のように剣を揺らすと、化石になった動物たちはカインの元へと歩み寄った。巨大な魚、口が長く突き出したイルカ、五角形の甲羅を持ったカメ。この世界にもう存在しない生き物たちの骨格はどこかグロテスクだ。それらを引き連れてカインはパレードの先頭を歩く。
カインは呪文を唱えると自分の目の前にいる魚の背びれに触れた。そこから砂状の煌めきが宙に線を描く。魚は眠るように地に向かい、床に転がった。カインは泳ぐようにステップを踏んで、化石を眠らせていく。
それは〈大いなる厄災〉が見せる永遠だった。
「今のこの世界はどうだった?」
カインの声に答えるものはいない。けれど、古代の生き物たちが踊るみたいに泳いでは、満足したように眠る。今ここで祭祀を司っているのはカインだった。
「《クーレ・メミニ》」
オーエンは自分の周りに浮かぶほとんど翼を失った水鳥を撫でた。虹色の輝きを残して地面に落ちていく。オーエンの手の中に残ったマナ石の欠片はごく僅かだ。
保管庫の化石が全て眠りにつくと、カインとオーエンはホールに向かった。
「お待たせ」
宙で身を翻すクジラはとても美しかった。ホールには天窓があって、そこから月明かりが差し込む。昼間と相違ない明るい夜だった。きっと、このクジラが海を泳いでいたときもこんな夜があったに違いない。
「《グラディアス・プロセーラ》」
カインの呪文に導かれ、クジラがカインの周りを泳ぐ。岩と同化して固まったはずの骨格が、このときは優雅にくねる。カインはスノウとホワイトが用意した鉱石を瓶から取り出した。
「あんたの新しい体にしてくれよ」
カインの手がクジラの喉元に触れる。
「《グラディアス・プロセーラ》」
呪文に答えるように鉱石が光を発した。少しずつマナ石と鉱石を入れ替えて行く。
「ーーーーーーーー!!!!!!!!」
甲高い不思議な声がホールに響いた。クジラが大きく弧を描くように泳ぐ。
「もっと綺麗な色に光らせろってさ」
焦るカインにオーエンは声をかけた。
「もう一度、深呼吸して」
「ああ」
カインは深く呼吸をする。オーエンの声がよく聞こえる。クジラの立てる波の感覚。月光に反射して揺らめくマナ石の煌めき。ほんの少し蒸し暑い室温。肌を流れる汗の感触。そのすべてがカイン・ナイトレイという魔法使いを形作っていく。
逆立ちしたって今のカインに世界を統べるような力はない。忠誠を誓った国家の信頼すら得られない。主君ほども強くあれない。幼馴染が言った通り、自分の信じているものは絶対不変の正しさなどではない。
「それでも、己が正しいと思ったことを」
お節介かもしれないし、無遠慮かもしれない。自分の正義を振り翳すことは傲慢だとわかっている。それでも何か行動することが、誰かを変えるかもしれない。それが、誰かの勇気になるのかもしれない。
「《グラディアス・プロセーラ》」
鉱石は夜の海と同じ色に輝いた。クジラの体が少しずつ鉱石に置き換わっていく。カインの手元の鉱石がすっかりなくなると、静かにクジラは元の場所に帰り、永遠の眠りについた。
§
依頼人は保管庫の化石とホールにあったクジラの化石を確認すると安堵したように息を吐いた。
「本当にありがとうございました」
「いや、これが俺たちの仕事なんだ。気にしないでくれ」
「今日はもう遅いですし、泊まっていってください。この辺りには研究員の住まいが何軒かあるんです。空き家を用意しておきましたから」
実際、満月は南の空高くに輝いている。日付が変わっていた。青年に案内された空き家は研究所からそう遠くないところにあった。
「私は向こうの……ええ、あの家に住んでいるので何かあれば」
「ああ。ありがとう」
カインとオーエンは預かった鍵を開けて家の中に入る。そう大きな家ではないし、作りも簡素なものだった。玄関を入ったポーチの部分には工具や化石、それにたくさんの本が並べてある。棚にはレポート用紙のような紙が無造作に突っ込まれていた。床には寝具まで置いてある。前の持ち主はここを研究室兼寝床にしていたらしい。土のついた化石を部屋に持ち込まないようにしようという衛生感覚はあるようだが、生活空間をポーチに移しているのでは意味がない。生活感と長いこと人が暮らしていない不在が同居した住まいだった。カインは青年が言っていた亡くなった同僚のことを思い出す。あのクジラを愛し、どこかの土の下に埋められた人。死者の気配は墓にばかりあるわけではない。
ポーチを抜けてすぐのところにはバスルームがある。家の奥にはキッチンとリビング、それにちゃんとしたベッドルームもあった。
「とりあえず風呂に入るか」
カインはあくびをしながらそう言う。バスルームの蛇口を捻るときちんと温かいお湯が出た。バスタブが思ったよりも綺麗なのは、事前に掃除してくれたからだろう。
「僕はいい」
「そう言うなって。この辺り砂埃が酷くてべとべとするだろ」
「魔法で綺麗にできるし……」
「そうだけど、気持ちいいだろ? 風呂」
カインが屈託なく勧めるのに対して、オーエンは小声でぽつりと漏らす。
「僕……お風呂入ったことない……」
オーエンの告白にカインは目を丸くして驚いていた。オーエンは気まずそうに顔を斜め下に向けている。
「魔法舎では──ってそう言われると風呂でオーエンに会ったことないな!?」
「魔法舎のお風呂、入ろうと思ったけどなんかみんな好き勝手言ってうるさいし」
魔法舎での共同生活を初めてまもない頃だったが、北の魔法使いが風呂場で暴れてスノウがおかんむりだったことをカインも思い出した。
「北の国ではお湯なんてそうそう手に入らない。だから魔法で体を清めるのが当たり前」
「そっか。じゃあ初体験だな」
「は?」
カインは髪留めを外し、手際よく服を脱いでいった。
「な、なんなんだよ!」
「ほら、オーエンも。脱がしてやろうか?」
「じ、自分でできる……」
魔法を使ってするりと服を脱ぎ捨てる。風呂に入るつもりなんてなかったのに、雰囲気に流されてなぜか裸になっている。途端に不安が湧き上がってきた。
「オーエン、こっちにおいで」
オーエンはおっかなびっくりバスタブの方に近づく。
「そんなに恥ずかしがらなくても。別に何回も見てるし……」
カインはそう言いかけてオーエンの体に視線を集中させた。
「その傷……」
オーエンの体には先日負った傷跡がそのまま残っていた。腹部の傷が一番目立つが足や肩のあたりにも無理やり皮膚を癒着させたような傷跡が残っていた。
「なんとなく残しておきたかっただけ」
傷跡を消すことはそう難しくない。カインが五カ国和平会議のときに負った怪我の痕も、もう残ってはいなかった。だからオーエンの言う通り、これは彼の意志で残してあるのだ。
「そっか」
カインはお湯を洗面器ですくうとオーエンの足にかけてやる。温かいものが足先に触れて、オーエンは猫が毛を逆立てたときみたいな声をあげた。
「ひいい……っ」
「そんなに驚かなくても」
腕と体にパシャリと湯をかけて軽く汚れを落としてやる。オーエンは体をぎゅっと縮こめていた。
「大丈夫だよ。後で髪も洗ってやるから湯船に浸かってて」
そう言われても湯の中に入ったことなんてない。オーエンが硬直していると、カインは仕方がないなあと笑った。
「体洗っちゃうから少し待っててくれるか?」
そう言うとカインは石鹸を泡立てて、髪から体まで全身泡だらけにすると頭から湯をかぶって流した。
「野蛮」
「そこまで言うことないだろ。騎士団も見習いの頃は風呂の時間が決まってたから三十秒で体が洗えるようになるんだよ」
カインは浴槽にざぶんと体を沈めた。
「ほら」
カインに手招きされて、オーエンは恐る恐る足先を浴槽の中の湯につけた。
「大丈夫だよ」
馬鹿にされるのは癪だ。オーエンはカインに背を向けた姿勢で思い切って湯船に浸かる。小さな浴槽は男二人が入るようにはできていない。オーエンはお湯というよりはカインの体に浸かっているような状況になった。
「ほら、肩まで浸かって」
カインは膝立ちになって、オーエンの肩を叩いた。空いたスペースの分、オーエンの背中をお湯が抱きしめる。はじめこそ湯の熱さが皮膚を刺すような感覚に気が気じゃなかったが、少しずつ全身が湯の温度に馴染んでいくと体がほぐれていった。カインに抱きしめられたときの感じに少し似ている。口からため息のようなものが漏れた。
オーエンが湯に慣れたのを見てとると、カインは浴槽の外に出た。
「髪洗ってやるから」
「えっ」
先ほどの早業を思い出して、オーエンは浴槽の端に体を寄せてカインの手から逃れる。
「ちゃんと丁寧に洗うよ」
「本当に?」
「本当本当」
カインが言う通りに湯船に浸かったまま天井を向いて頭だけカインの方に向けた。
「目瞑ってて」
言われた通りに目を瞑ると顔の上にタオルが載せられた。温かい湯が頭にかかる。少ししてからカインの指先がオーエンの頭皮に触れた。石鹸を泡立てるみたいに指先がオーエンの頭の上をくるくるなぞる。当然何が起きているか見えないから、感触で察するしかない。こんな無防備なことがあっても良いのだろうか。
「大丈夫か?」
カインの声には笑みが含まれていた。オーエンのことを散々面白がっている。絶対に許さない。
最初のうちは緊張が勝っていたが、徐々に頭を撫でられる感触に肩の力が抜けていった。髪を洗われるのがこんなに気持ちよかったなんて知らなかった。言葉通り、カインの手つきは彼自身の髪を洗うよりもずっと丁寧だった。くるくるとマッサージするみたいに頭の上をカインの指が撫でる。気がつけば眠気すら覚えはじめていた。
「髪流すよ」
カインは洗面器にお湯を溜めると、オーエンの髪を浸して石鹸を洗いした。オーエンの銀の髪はさらさらと洗面器の湯の中で揺れる。オーエンの髪を梳くカインの指先が耳たぶの裏側に触れる。
「んっ」
体がむずっとした。カインにそんな気はないはずだし、オーエンだってこれがただの洗髪だとわかっている。それなのに、体がその気になってくる。裸で湯に浸かっている以上、体の変化はすぐに気づかれてしまう。オーエンは膝と膝をくっつけて、なんとか誤魔化そうとした。
「はい、終わり」
カインはオーエンの髪を軽くタオルで拭いた。それすらも、一度スイッチの入ったオーエンの体には十分な刺激となる。
「オーエン?」
「な、なに?」
オーエンは精一杯平静を取り繕って答えた。
「顔赤いけど、大丈夫か?」
「え?」
「俺も浸かりたいから一回上がってくれよ。ずっと入ってるとのぼせるし」
今浴槽から出たら確実に気づかれてしまう。
「一緒に……入ればいいでしょ」
「流石に狭いんだって」
「いいから」
強引にカインを湯船に引っ張り込む。カインに背を向けていれば気づかれることはないはずだ。あとは自然に上がって、タオルを巻いてしまえば問題ない。
しかし、カインの言うとおり浴槽は二人で入るには狭すぎた。
「あ、悪い」
バランスを取ろうとしたカインの手がオーエンの胸に触れた。
「やっ……あっ……!」
きゅうと快感が体を突き抜けていく。勝手に期待をした胸の尖が、軽く触れただけでもぴんと立っている。腕を抱いて快感を逃すように堪えていると耳元で無神経な声が聞こえた。
「もしかして、興奮してるのか?」
それはあまりにもあけすけな質問だった。
「そ、そんなわけないだろ!」
慌てて否定する。それでもカインと密着せざるを得ずオーエンはカインの胸に自分の背中を預けた。その時、ちょうど尾てい骨あたりに硬いものが当たった。
「……」
「悪い。というかしょうがないだろ」
オーエンはちらりと背後を振り返った。カインの上気した頬は、何も風呂のせいだけではないようだった。
ポーチのマットレスの上に倒れ込んだのは、単純にバスルームから近かったからという堪え性のない理由と、ガラスの天井から差し込む月明かりでちょうどいい明るさだったからという現実的な理由からだった。髪や体を十分に乾かすのももどかしく、濡れた体を重ね合わせた。
「ん……」
舌先でなぞったカインの口の中はいつもより熱かった。上顎の窪みをなめとると、腰を強く引き寄せられた。カインの雄の部分が太ももに擦れる。少しずつ冷えていく水滴とは別の生温かい液体が太ももの上に線を引いた。
「オーエン……」
カインはいつもより切羽詰まった顔をしていた。いいな、と思う。自分のことが欲しくて欲しくてたまらない顔。ずっと見ていたいけれど、オーエンも多分同じような顔をしている。それにオーエンはカインよりずっと自分の欲望に正直だった。オーエンはカインの体の上に跨ると腹の方まで勃ち上がったカインの性器を自分の秘部に押し当てた。
「はあ……っ」
くぽんと先端がオーエンの中に入る。魔法で柔らかくした部分は上手にカインのものを咥えていく。こりこりした気持ちいいところを中に入ったカインの性器に擦り付けるようにする。
「あっ……あっ!」
腰を揺らす度にちょっとずつ奥までカインのものが入っていく。すでにオーエンの薄紅のペニスは射精して、とろとろとした白濁を散らしている。それを視界に入れた腰を掴むカインの手に力が入るのがわかった。
「オーエン。もうちょっとだよ」
「まだ、ぜんぶじゃない……の?」
「うん。もうちょっと」
カインはオーエンの背中を引き寄せて自分の体の上で抱きかかえた。上半身を密着させたまま、カインは腹筋を使ってオーエンの奥を穿った。
「なっ……あ……め……」
今まで突かれたところのない場所を貫かれてオーエンはカインの体の上で声にならない言葉を漏らし続けた。最奥をこつんこつんと突き上げられる度に、体がびくびくと震えて、熱くなる。最初は驚いたように締まるだけだったオーエンの中は、次第にカインの形を覚えて精を搾り尽くすように絡みついた。
「あっ……イく……」
カインが達すると、オーエンは嬉しそうに笑ってカインの唇に口付けを落とした。喰らいつくみたいに唇を貪って、互いに吐いた息を吸った。酸素が足りなくてくらくらする。
「余裕のないきみの顔、だいすき」
「俺も気持ち良くなってるオーエンの顔が好きだぞ」
つい無駄な張り合いをしてしまうのはなぜだろう。
「もう気持ちいいことしかしたくない」
オーエンはぽつりと言った。気持ちいいことしかない一生なんてないけれど、一晩くらいはそういう夜があったっていいじゃないか。
「俺もだよ。オーエン」
§
気持ちいいことしかしたくないとは言ったけど、気持ちいいことしかない時間はおかしくなりそうだった。
「いあっ……ぁ……っ!」
マットレスの上に座って抱き合った姿勢でオーエンはカインにとっぷり愛されていた。胸元の赤い実が唇で啄まれて、舌先で捏ねられて。快感が下腹部へと流れていく。
「カイン……!」
名前を呼ぶと唇にキスをしてくれる。上手に口が閉じれなくなっていて、混じり合った唾液が口の端からだらだらと溢れてしまう。体を気持ちよくされるのも好きだけど、唇がいっぱいになるのも好きだ。カインの肩にしがみついて離れないでよと訴えかける。
「オーエン、どこがいい……?」
「ぜんぶ……」
「贅沢だな」
だって全部がこんなに気持ちいい。
ただ肌に触れられるだけで、キスをするだけでオーエンの体は素直に応えてしまう。真っ赤に熟した胸元も、汗ばんだ背中も、白く薄い太ももの内側も。カインの触れていないところはもう全然ない。他者と自分を遮るはずの肌が、今は敏感にカインのことを感じようとしている。きっともう前のようには戻れない。
カインがあやすようにオーエンの体を前後に揺すると、中に入ったままのカインの屹立が奥の方をとんとんと刺激する。
「ああああっ……!」
何回イったかもうわからなかった。色の薄い液体がぴくぴくと性器から吐き出される。射精し過ぎてもうオーエンは勃たない。この体が勃たなくてもイけることを初めて知った。
カインの指先がオーエンの額に張りつく濡れた前髪を払う。額に頬に、彼の熱っぽい指先が触れた。オーエンはカインの首筋に噛み付くように唇を這わせる。ここが好きだって知ってるから。
「やめ……っ、あっ……」
背中に回されたカインの手に力が入る。温かいものがお腹の中に広がって、内臓が押し上げられるような感じがした。カインの荒い呼吸が耳元で聞こえる。愛しくてたまらない気持ちで彼の頭を撫でた。長い髪が汗で彼の首筋やオーエンの腕に絡む。
「お腹たぷたぷなんだけど」
カインは果てることを知らなかった。若いって怖い。何回中で出されたかわからないが、オーエンの腹はぽっこりと膨れていた。
「悪い……」
カインが自身のものを引き抜くと、栓が抜けたように中に出された精液が溢れ落ちていく。なぜか寂しいような気持ちになる。
「傷、すごい目立つな」
カインの手がオーエンの腹部を撫でた。すっかり閉じた傷跡は痛くないが、皮膚の感覚が他と違うせいか触れられるとくすぐったかった。思わずふふっと笑みが溢れる。
「僕を傷物にした責任取ってよね」
オーエンが艶然と笑って見せると、カインは苦笑した。
「それは俺の責任なのか……?」
だんだん触り方がいやらしくなって、終いにカインは腹の傷跡に舌を伸ばしてぺろりと舐めた。くすぐったさにそわそわする。
「ちょっ……っと──んあっ!」
体を仰向けにひっくり返された。本当に恐ろしいことに、カインの股間はしっかり勃っている。オーエンの体力は限界だった。それなのに後ろの孔が勝手に期待してひくひくと疼くのを感じた。
「オーエン」
カインが耳元で囁く。ぎゅうと裸の体が触れ合って、カインと一つになる。
ガラス越しに〈大いなる厄災〉の光が差し込む。カインの体も赤銅の髪も薄青く光っているのはなんだか海の中にいるようだった。何万年も前の海。そこでもきっとこうして二人で抱き合っている。
変わらないものはない。ここが時間をかけて海から陸地になったように、古代の生き物が滅び人間や魔法使いを生んだように、何もかも変わりゆく。その一方でどうしたって揺るがないものは背骨の形をして大地に眠る。変化と不変の狭間を生き物は泳ぎ続けてきた。
オーエンはもう知っている。
もう変わることを怖れなくてもいい。変われないことに絶望しなくてもいい。
§
雨音に気づいたのは、流石に疲れたオーエンが意識を朦朧とさせ始めた頃だった。雲が広がって、しとしとと雨が降る。ポーチの天井を叩く雨粒はぽろんぽろんと音を奏でた。肌寒くなってカインは足元のブランケットを引っ張り上げる。オーエンは寒くないだろうかと覗き込むと目が合った。
「起きてたのか?」
「今起きた。うるさいなって思って」
「雨、さっき降り始めた」
オーエンが身じろぎする。体が冷たい。ブランケットをオーエンにかけて、一緒に抱きしめる。
「俺はオーエンのことが本当に好きなんだ」
「うん」
オーエンが腕の中で頷いた。
「約束はしない。俺たちのことだからいつか喧嘩別れになるのかもしれない。でも、それでも──一緒にいたいと思ううちはこうしていたいんだ」
カインとオーエンの間には分かり合えないことがたくさんある。カインはオーエンの話をよく聞いてやりたいとは思っているけれど、多分最後の最後でカインは自分が正しいと思った方を選ぶ。オーエンだって、譲りたくないことを譲るようなやつじゃない。
それでも、不器用でもいいから一緒にいたいのだ。
「いつか終わるとしても、僕はきみのそばにいたい」
オーエンの声は雨音よりも小さかったから、こうして抱きしめていなくては聞こえなかっただろう。そっと扉を押し開くようにオーエンは自分の気持ちを告げた。
「傷つかないでっていう願いは叶えられなくてもいい?」
「できるだけ頑張ってくれたらいいよ」
「僕のそばにいるならもっと強くなってもらわないと」
「それは努力する。オーエンの側にいられるようになる。これは約束したっていい」
「しなくていいよ。馬鹿」
オーエンは苦笑して、カインの額を人差し指で小突いた。
「今日のこともいつか忘れちゃうかな」
一万年後の生き物みたいにオーエンは寂しそうだった。
カインはそっと口付けた。触れるだけの、誓うようなキス。
「忘れたらまたキスをしてくれる?」
一万年後でも、十万年後でも。長い長い年月を泳いで、息継ぎをするみたいにキスをする。そうしてまた海に潜る。傷つくことを恐れずに、この世界を泳いでいく。
カインはきょとんとした顔をして、それから満面の笑みを見せた。
「いいよ」
宝物を見つけたみたいに、オーエンも笑った。
それから──。