第四章 永遠のパフェ
最近よく昔のことを思い出す。といってもオーエンの脳裏に浮かぶのは特定のエピソードではなく、感情や感覚がバラバラに湧き出てくるだけだ。そのほとんどが痛みや苦しみで、ふと思い出しては呼吸が速くなる。今ここにいる自分が感じているわけじゃないと言い聞かせてなんとか払い除ける。
カインには言っていない。彼が、彼らしい傲慢さで自分のせいだと責任を感じるだろうことはわかっていた。でも実際のところカインはきっかけを与えたにすぎない。泡のように浮き上がってくるそれは、ずっとオーエンの中にあったもので、以前は容易に無視することができていただけだ。
それになぜだかカインの側にいるときはあまり苦しくも痛くもない。体を重ねることはまだ躊躇するけれど、それ以外は一番安心できる。でも、それでいいのだろうか。
カインとの関係は永遠じゃない。長い年月の瞬きするような一瞬でしかないのかもしれない。それなのに、こんなに自分を預けてもいいのだろうか。彼の側で安寧を感じるたびに不安になる。
この関係が失われてしまったらどうやって生きていけばいいのだろう。
§
そわそわした足音とこちらを窺うような気配にオーエンは口を開いた。
「なにか用?」
「わっ! 起こしちゃった!? ごめんね」
クロエはわたわたとした様子で話しかけてきた。
「別に寝てたわけじゃないから」
談話室のソファにオーエンは座っていた。三人がけのソファの肘置きに頭を載せて上半身を座面にもたれさせていた。
「具合、悪いの?」
「別に。なんでもないよ」
クロエが心配そうに覗き込んでくる。確かに調子は良くなかったけれど、心配されるような程でもない。
「それならよかった。──隣座ってもいい?」
オーエンが顎でしゃくって許可すると、クロエはオーエンの隣に座った。オーエンも体を起こす。少し頭が重い。
「今度賢者様と西の国にパフェを食べに行くんだけど、オーエンも一緒にどう?」
「パフェ?」
「そう。深夜しか開いてないすごく人気のパフェテリアでね、ようやく予約が取れたんだ」
「行く」
パフェというからには甘いものだろう。西の国はあんまり好きではないが、パフェが食べられるなら行ってやってもいい。
「よかった。詳しいことはあとで伝えるから。あっ、あと……俺が着ていく洋服を用意してもいいかな?」
「別にいいけど」
「やった!」
クロエはなぜこんなに嬉しそうなのだろう。魔法舎にはオーエンなんかよりもずっと親しい魔法使いだっているだろうに。賢者だって、オーエンよりも他の魔法使いといる方が、安心できるに違いない。それなのにクロエの声は弾んでいる。
「楽しみにしているからね」
クロエははにかみながらそう言った。
§
西の国に行くのは、オーエンがクロエに誘われたちょうど一週間後だった。そのパフェテリアはとっぷり日が暮れて、三分の一程に欠けた〈大いなる厄災〉が夜空に昇る頃に開くらしい。
カインに「西の国にあるそれはそれは欲望渦巻く歓楽街に遊びに行くんだよ」と言ったら、「そうか、楽しんでこいよ」と温かく送り出された。恋人がそんなところに行くのを少しは心配した方がいいのではないかと思う。
「ばっちり!」
クロエは着替えたオーエンを見て歓声を上げた。
「とっても似合ってますよ」
賢者も太鼓判を押す。
クロエが用意した衣装はカジュアルなセットアップだった。三人ともデザインに共通点はあるものの、生地の色やあしらいの刺繍に使われている糸が違う。オーエンのものは濃紺の生地に銀の糸で刺繍がされている。アクセサリーも銀で、首元のループタイにあしらわれた飾りは明るい紫の石だ。クロエは緋色のジャケットに茶色のパンツで、金の糸が縫い込まれている。タイピンやブローチも金色で、華やかな印象がある。髪の横側が編み込まれて金のピンで止められているが、オーエンの髪もクロエは同じように編み込んで色違いの銀のピンで止めていた。「お揃いだね」とクロエが嬉しそうにしているが、オーエンとしてはなんの感慨も湧かない。
「賢者様もいい感じ。夜遊びに慣れてる感じで」
「はは。着られてないといいんですけど」
賢者の衣装は白に紫の糸で大胆に模様が刻まれていた。
「全身白だとなんかオーエンみたいですよね」
賢者はそんなことを言って、オーエンの前で一回転した。
「は? 僕と一緒にするなよ」
そう言い捨ててから、オーエンは賢者の襟元に手を伸ばした。
「タイが曲がってる」
「うわあ……ありがとうございます」
賢者もクロエもパフェを食べに行くにしては大袈裟なくらいはしゃいでいた。
「そんなに楽しみにするくらい美味しいの?」
「もちろん味も大事なんだけど雰囲気も大事っていうか、夜の街ってそれだけでドキドキするから」
「そう?」
クロエは力説するが、オーエンにはピンとこない。
「とにかく、早く行こうよ」
魔法舎のエレベーターを使えば西の国までもあっという間だ。そこから少し移動した街にお目当てのパフェテリアがある。オーエンはだいぶ昔にその街を訪れたことがある。西の国では中の下といった賑わいの小さな街。しかし、オーエンたちを出迎えたのは鮮やかな夜の街だった
「すごいですね……!」
賢者は目を丸くして感嘆した。オーエンも少し驚いた。西の国は来るたびに派手に、華やかになっていく。西の国と中央の国は特にこの数百年での発展が目覚ましいが、進歩の方向が少しだけ違う。カインに冗談で告げた『欲望渦巻く歓楽街』という表現もあながち間違っていなかった。
目的のパフェテリアに辿り着くまでに、たくさんの客引きから声をかけられた。酒やシガレットを出すバーやダンスホールなら良い方で、いわゆるいかがわしい類の店もある。オーエンは煙たげに躱すだけだが、賢者とクロエは律儀に顔を真っ赤にしていた。
「夜の街を楽しむんじゃなかったの?」
にやりと笑って尋ねるとクロエと賢者は口を揃えてぽつり言った。
「少し早かったかも……」
「大人の街ですねえ……」
パフェテリアは賑やかな表通りから一本入ったところにあった。クロエは胸ポケットに入れていた予約票をたたむとふっと息を吹き掛ける。予約票は生き物のようにはためいたと思うと、鳥の形になった。よく見るとそれはフクロウで、オーエンたちの周りをぐるりと一周すると看板の上に止まった。小さな看板に細い文字で「ナイト・アウルズ」と書かれている。先ほどまではなかった看板だ。
「なんかドキドキするね」
クロエはドアの取手に手をかけて言う。オーエンはなんと返答しようか迷った。脅かすべきか、それとも中から感じられる魔法使いの魔力は大したことがないと言ってやるべきか。オーエンが口を開く前にクロエが扉を開けるとチリリンと鈴の音がした。
「いらっしゃいませ」
店内は外から見た印象よりも広い。店内は三つに分かれている。階段を上った先のロフトのスペースと、階段を下った先の半地下のスペースには四人掛けのテーブル席が、玄関を入って奥にはカウンター席がある。
白いエプロンを付けた女性の店員はフクロウを呼び込む。フクロウは彼女の指先にとまると再び予約票の形をとった。
「ご予約のフェルチ様ですね。お待ちしておりました」
彼女はそう言ってオーエンたちを半地下のフロアに案内した。本当に人気店らしく、他のテーブルは全て埋まっていた。キャンドルの暖かな光がひっそりとした店内を明るくしている。オーエンたちは奥の席に案内された。
「素敵なお店ですね」
賢者は店内を見渡した。隠れ家のようなひっそりとした設えだ。ソファはベルベッドの座面で座り心地が良い。店員が運んできた茶器やテーブルに飾られた花を入れた花瓶は薄く上品な陶器で、滑らかな白が落ち着いた店内の雰囲気によく合っていた。
香り豊かなお茶を飲みながら早速メニューを開く。
「オーエンはどれにする? どれも美味しそうだよね」
「なんで僕を誘ったの?」
クロエの問いかけを無視して、オーエンは尋ねた。
「なんでって?」
「とぼけるなよ。ラスティカと来るはずだったんだろ?」
店員に渡した予約票にはラスティカの名前が書いてあったはずだ。ラスティカとクロエはいつも一緒に行動している。元々二人で──おそらくは賢者も含めて三人で来る予定だったはずだ。
「あれはね、俺がオーエンは甘いものが好きだから誘ったら喜んだかなって言ったんだ。そしたらラスティカが『自分の代わりにオーエンを誘って行って来るといいよ』って」
「ラスティカと一緒の方が楽しいだろ?」
「ラスティカと一緒に来るのは楽しいけど、オーエンと一緒なのも楽しいよ。それに……」
クロエは少し迷ったが、結局口にした。
「最近オーエンの元気がなさそうだったから、美味しいものを食べて喜んでくれたらいいなって思ったんだよ」
オーエンはきょとんとした顔をした。
「僕、元気ないの?」
「俺にはそう見えたけど」
クロエとオーエンの視線が同時に賢者に向く。
「確かに少し……ぼーっとしてることが多いなって思ってましたよ。──自覚、ないですか?」
賢者の答えを聞いてオーエンは頷いた。
「うん」
「とにかく今日は美味しいパフェを食べて、楽しい話でもしましょう」
オーエンがいくらでも食べられると言ったので、メニューにあるパフェを一種類ずつ頼んだ。
「楽しい話って、何をすればいいの?」
パフェが出てくるまで少しかかるようだった。オーエンは店員が下がってからそう切り出す。
「そうですね……。じゃあ最近ハマっていることや好きなものの話はどうでしょうか?」
時々魔法使い同士、無理やり交流させられるときに登場するトークテーマみたいだ。
「ハマっていること……俺は相変わらず洋服を作ることかな」
「変わり映えがないね」
オーエンが切り捨てると、なぜかクロエは嬉しそうに笑った。
「そうだよね。でも、魔法舎に来てからいろんなテイストの服に挑戦できるから楽しくって。ほら、今日もオーエンや賢者様が着てるような服は今まであんまり作ったことがなかったかも」
「俺もクロエのおかげでなんかおしゃれになったような気がします」
「やったことがないことをやるのは楽しい?」
クロエはオーエンの問いにうーんと少し考えてから答えた。
「やったことがないことってちょっと怖いし、最初は上手くいかないことも多いんだけど、その分出来上がったときの楽しさも大きいんだよね。なんだか世界が広がった感じがして」
たとえばさ、とクロエはティーカップを置いてから両手を大きく動かして説明する。
「俺は自分やラスティカの洋服を作ることが多かったからさ、カインとかレノックスみたいな厚みがある体に合わせた服ってあんまり作ったことなかったんだよね。最初はシルエットが決まらないなーって思ってたんだけど、だんだんいい感じのデザインとか着こなしが思いつくようになって。そういうときに良かったな、嬉しいなって思うよ」
「そう……」
カインと一緒にいると知らない感覚がたくさん襲ってくる。素直に楽しいと思ったことはなかった。どちらかといえば変な感じがして、居心地が悪い。たとえば魔法を教えることなんて、今まで一度だってやったことがない。でも、それが不快というわけでもなかった。むしろどこか興味を惹かれる。いつか楽しいとさえ思える日が来るのだろうか。
「賢者様は?」
オーエンが思索に耽っていると、クロエが賢者に同じ質問をした。
「俺はなんだろう……。最近新しい猫ちゃんを魔法舎の中庭で見かけるようになったんですよ。その子たちと遊ぶのが楽しみで、日々の癒しですかね」
「賢者様は猫が好きだもんね」
「はい」
魔法舎に最近やってきた猫は今までいた縄張りを追い出されたやつだ。賢者は猫好きだから、魔法舎の居心地が良いことは猫の間でも話題になっている。オーエンは猫の言葉がわかるから、その辺りの会話も聞いていた。あいつらは餌がもらえるならなんでもいいのだ。
「オーエンはどうですか?」
賢者に問われてオーエンは言葉に詰まった。最近楽しいこと、好きなこと。真っ先に思い浮かんだのはカインの顔だった。でも、果たして楽しいと言い切っていいのだろうか。楽しいのなら、こんな風に不安になることはないはずなのに。
「わからない」
そう答えると、ちょうどパフェが運ばれてきた。この店にあるパフェは全部で六種類。そのうちの半分だ。
「うわーすごい!」
「綺麗ですね」
クロエと賢者の歓声を聞きつつ、オーエンは黙って柄の長いスプーンを手に取った。
「もういい? 食べても」
「はい! オーエンはどれから行きます?」
「じゃあ……これ」
テーブルの上に三つ並んだパフェの中から、オーエンはチーズクリームに飴細工の飾られた白いパフェを選んだ。
「賢者様選んでいいよ」
「じゃあ俺はこの柑橘っぽいやつにしますね」
クロエに促された賢者が選んだのはオレンジ色が鮮やかな夏っぽいパフェだ。メニューには期間限定と書かれている。クロエは残ったチョコレートパフェを目の前に置いた。
オーエンは一番上のアイスクリームをすくった。ナッツの風味がする。甘さが控えめなのが少し物足りないが、周りのチーズクリームは甘くて気に入った。飴細工を無造作に齧ると口の中でぱちぱちと砂糖がはじける。それを黙らせるみたいにアイスとチーズクリームをもうひと口。それからぽつりと言った。
「パフェは好きだよ」
賢者とクロエは一瞬きょとんとした顔をしてから、それがパフェが運ばれてくる前に問いかけたことへの回答だと気づいた。
「パフェいいよね。見た目も綺麗だし、なんか特別な日のデザートって感じ」
「そういえば前にカインがオーエンとパフェを食べに行ったって言ってましたね」
カインの名前を聞いて、一心にパフェを食べていたオーエンの手が一瞬止まる。
「騎士様にいっぱい奢らせてやったよ」
そのとき食べたパフェよりもこの店のパフェの方がずっと上等な味がした。カインがここにいたらなんと言うだろう。彼は自分が頼んだパフェすら、最後にはオーエンの方にグラスごと滑らせた。ここでも同じようにするだろうか。それとも美味しさに目を丸くするか。どちらもオーエンは容易に想像することができた。そして、そんな風に他者のことを脳裏に浮かべる自分自身に気味が悪い思いがする。自分の目の前にあるものは憎悪と嫌悪であればいいと思っていたのに、どうしてそうではないものを思い描いているのだろう。
チーズクリームを掘り進めていくと、サクサクとしたクッキーのようなものが入っている。ココアのほろ苦さとレモンの酸味がそれぞれ口の中に広がる。もっと甘くてもいい。さらに掘り進めると爽やかなミントの香りと、オーエンの期待ほどではないホワイトチョコレートの柔らかい甘さがやってきた。掘り進めるほどに表層とは違った味が次々と現れてくる。オーエンはぐるりと一度残ったパフェのクリームを混ぜる。混ざり合った味は、また違った風味を醸し出す。
クロエと賢者はオーエンよりも丁寧に、大事そうにパフェを食べていた。それでも最後にはアイスクリームやソルベとクリームが混ざり合って、マーブル模様を作る。なんだか今のオーエンみたいだ。ぐちゃぐちゃでどろどろ。
「一番下に入ってるのパイだ」
クロエは眠っていた宝物を発見したみたいに声を上げると、パフェグラスの底に入っていた小さなパイをスプーンで取り上げる。それ単品でも三時のおやつとして成立しそうな小ぶりのパイが地層の一番下に眠っていた。
「オーエン、食べる?」
「食べる」
クロエはチョコレートソースの海に沈んでいたパイをオーエンの口元に運んだ。サクサクとした食感の奥で、生地に織り込まれていたベリーのジャムが口の中でとろける。
「オーエン、俺のパフェも食べますか? このゼリー甘くて美味しいですよ」
「食べる──けどなんか僕のこと馬鹿にしてない?」
賢者は魔法舎にやってくる猫たちに餌を配るときと同じ顔をしている。オーエンがじとっと見やると彼は思いっきり首を振った。
「してませんって」
「まあいいけど」
賢者の差し出したスプーンをぱくっと口で咥えて、透けるようなオレンジ色とレモン色のゼリーを食べる。見た目ほど酸っぱくはなくて、甘い。クリームからは蜂蜜の香りがした。
運ばれてきたパフェを一通り食べ終えると、店員が一度グラスを下げた。残りを作って持ってきてくれるらしい。賢者は空のカップに紅茶を入れる。
「俺はもう満腹です」
「俺もー。オーエンはまだまだ食べられるんでしょ?」
「当然」
この程度で満足できるはずがない。しばらくすると、さらに三つグラスが運ばれてきた。
第二陣のパフェは先ほどまでとはまた違った装いをしていた。最初にオーエンが手をつけたのは茶を使ったパフェだった。一番上の紅茶のソルベとその下のソフトクリームは混ざり合ってミルクティーのような風味を醸し出す。かと思えばその下にはレモンティーを模したさっぱりとしたジュレや、もっちりとした食感の薔薇のムースが潜んでいる。周りに飾られている薄いチョコレートはぴりりとするスパイスが少しだけ効いていた。それぞれの角度で縦に切り取って口に運ぶと微妙に味わいが変化する。紅茶のソルベが多いとほろ苦く、ソフトクリームが多ければ甘い。
パフェグラスが空になるまでオーエンはそれを夢中になって食べた。空になったら次のグラスへ。甘いものは儚くて、口の中で広がってはすぐに消えていく。パフェは好きだけれど、やっぱり切ない。オーエンにとって優しいはいつもそうだ。すぐに消えて無くなってしまうもの。それよりも苦痛や嫌悪、他者からの悪意の方がずっと確かなものだった。
予約していたホテルはパフェテリアからほど近い歓楽街のど真ん中にあった。それでもホテルの中は喧騒を遮断するように静かだ。
「お湯もらっていいんですか?」
「うん。俺は魔法で綺麗にしちゃう」
オーエンもクロエの言葉に頷く。体を清める魔法は清潔な水やそれを温めるための手段が手に入らない場所では便利だ。北の国で湯は希少で、魔法で体を清めるのがごく普通のことだった。
賢者が風呂に入っている間にオーエンは着替えてベッドの上に座った。クロエはオーエンの隣のベッド──賢者とオーエンに挟まれた真ん中のベッドにダイブするとふふっと笑った。
「オーエン、一緒に来てくれてありがとう」
「なんでおまえが礼を言うんだよ」
「嬉しかったから。オーエンと美味しいものを食べていっぱい話ができたのが。すごく楽しい一日だったよ」
「こんなのたくさんあるうちの一日だろ。どうせいつか忘れるよ」
少なくともオーエンはきっといつか忘れてしまう。パフェの中に眠るパイみたいに。とびきり素敵な思い出も、いつか記憶の地層の奥深く隠されてしまう。
「俺は覚えていたいな。ねえ、オーエンが忘れちゃったらまた来ようよ。約束はしなくてもいいから、それだけ覚えていて」
クロエは「ね?」とオーエンに強く迫る。オーエンはこの手の強引さに弱い。小さく頷くとクロエは「やったー」と言ってベッドの上で寝返りを打った。しばらくすると賢者がバスルームから出てくる。
「いい湯でした」
風呂から上がった賢者は頭の上あたりに湯気が出ているように見えた。彼はクロエの横のベッドにどすんと腰を下ろす。
「二人で何を話していたんですか?」
「また来たいねって話」
もうとっくに日付が変わっていると言うのに、この二人と過ごす夜はうるさくて賑やかだった。オーエンは二人のおしゃべりを聞いて、時々意地悪なことを言う。それなのに二人とも大して面白い反応をしないからつまらなかった。
「ねえ、ちょっと、僕は怖い怖い北の魔法使いなんだけど」
「ごめんね! お泊まり会の夜は最強だから」
クロエも賢者も──そしてオーエンも、なんだか酔っ払っているみたいだった。パフェには多少アルコールが入っていたけれど、そればっかりじゃないだろう。クロエの言う通り、非日常の空気が彼らを浮かれさせているのだ。浮かれていなければ、クロエだってこんな質問をしたりしない。
「オーエンってさ、カインのことが好きなの?」
その問いは突然の夕立みたいにクロエの口から発せられた。
「は? 僕が騎士様を好きって……なんで……」
「オーエンがカインの話をするとき、優しそうな顔をするから」
そんなわけがない。確かめるように賢者に視線をやると、彼はクロエの言葉に頷いた。
「わかります。カインの話をするとくすぐったそうにしますもんね」
「……してない」
オーエンは憮然とした顔で告げる。
「僕は誰のことも好きにならないよ」
「どうして?」
クロエの問いかけにオーエンは皮肉めいた口調で答えた。
「どうせ時間が経てば忘れてしまうから。好きになったって、永遠に好きでいられることなんてないよ。そんなものに心を寄せたりしない」
クロエは言葉を忘れたように押し黙った。その顔がびっくりするくらい切実な色で固まっていて、なぜかオーエンの方が動揺する。もっと単純に言いくるめるような、意地悪をするようなつもりだったのに。クロエは悲しむでもなく、怯えるでもなく──その目には憐れみがある。それが妙にオーエンを苛立たせた。睨みつけてようやくクロエは目を伏せる。
「永遠じゃなきゃ駄目ですか?」
クロエの代わりにそう言ったのは賢者だった。
「賢者様は魔法舎にやってくる猫が、病気や怪我で死んだら悲しくならない?」
「なりますよ。もちろん」
「それなのにどうして好きなの?」
「悲しくなりたくないから好きにならないっていうのは多分順番がおかしくて、好きだから悲しくなるんですよね」
賢者は寂しさを飲み込むみたいに答えた。
「いつか終わるのに好きなの?」
「はい。そうでければ俺はここにいません」
いつかこの世界を去っていく賢者ははっきりと告げる。
オーエンがその気になれば賢者のことはいつだって殺すことができる。それくらい弱々しい存在の彼に、このときオーエンはわずかに気圧された。
「終わりのことを考えちゃうのは、きっとそれだけ愛してるってことなんです」
好きだからいつか終わる日のことを思う。好きだから寂しい。
きっとオーエンはカインのことが好きなのだ。だからこそ、こんなにも寂しい。未来は不確実でも、進む先に終わりがあることだけは確かだと知っているから、こんなにも苦しい。いつかカインに思い知らせるはずの絶望だったのに。
「それって、酷いことだね」
オーエンは投げやりな口調でそれだけ言った。それしか言えなかった。
頭の中に嫌な感じが浮かぶ。今日は一日なんともなかったのに。ベッドに蹲って頭の中を暴れる感情をやり過ごす。
「大丈夫?」
オーエンの冷たい手にクロエがそっと触れた。びっくりするほど温かく感じたけれど、むしろオーエンの手が痺れるくらいに冷え切っていたのだ。少しずつ過去に引きずられそうになった感覚が戻ってくる。
大丈夫。
絶望には慣れている。この世の恐ろしいことは全てオーエンの同族なのだから。きっと飼い慣らしてみせる。
「俺、騒ぎすぎちゃったよね」
クロエと賢者が心配そうな顔でこちらを見ている。
「別にいい」
自分でも不思議だったけれどクロエと賢者様がおしゃべりしている声を聞くのは嫌じゃなかった。確かに楽しんでいたのだ。
「僕が眠るまでお喋りしてて」
そんな無茶苦茶なことを言うと、クロエは「それなら任せて」と請け負った。
オーエンは彼らの声を聞きながら目を閉じる。いつの間にか辛い気持ちは過ぎ去って、気がつけば眠っていた。
§
夜遅くまで話し込んで、目覚めたのはすっかり太陽が昇った後だった。魔法舎に戻るといつもより静かに感じられる。カインの気配を探したが見つからない。
「中央の魔法使いたちは調査に行っています」
賢者に尋ねると、彼は文字を書きつけていた賢者の書を閉じて答えた。
「調査?」
「はい。先日魔法舎に依頼があったんです。中央の国にある地質研究所で不思議な現象が起こってるって」
「そう」
「ここからそう遠くないですし、今日中に戻ってくるはずです」
「別にどうでもいい」
カインに会いたかった。けれど、そのことを認めるのも怖い。まるで今までの自分が底からぐるりとひっくり返されるような感じがする。
「落ち着かないなら一緒に中庭に行きませんか。天気も良くて、猫ちゃんたちがいるかも」
「は? 行かない」
「そうですか」
賢者が本気で残念そうにした。それから少し真面目な表情を作って告げた。
「オーエン。永遠のものなんてないのかもしれません。でも俺は、あなたたちはそう簡単に終わらないって思ってますよ」
あなたたち。賢者がオーエンとカインを指してそう言ったことはわかった。賢者は彼なりの誠実さで、終わりが来ないという嘘はつかなかった。
彼の手が賢者の書を大事そうに抱え込む。そこに書かれていることをオーエンは知らない。賢者の書く文字はオーエンも他の魔法使いたちも誰一人読むことはできなかった。賢者はそれをオーエンたち魔法使いとわかり合うために綴っていると言ったけれど、オーエンにはそれが彼との深い断絶にも思えるのだ。
この世界にはそういうものがたくさんある。愛していても、わかり合えないように。わかり合っても、親しくはできないように。そして、どれだけ好きでも心を交わすことができないことだってある。
「……少しだけ行く。暇だから」
「オーエンが来るとみんな喜びますよ」
「本当に変なやつら」
猫も賢者も、そしてカインも。
自分も。どうして怖れる必要がある。もとより恐怖も絶望も従えて生きてきたのが北の魔法使いオーエンではなかったか。
外はもうすっかり夏の匂いがした。
何もかもが変わってゆく。その中でただ一つ揺るぎない己こそが、オーエンが今まで頼りにしてきたものだ。自分はどうしたいのか。その答えはもうここにある。