3
中央の国の城は何層かに分かれている。一番外側の城門をくぐるのはそう難しくない。城で働く人間は兵士やメイドから高級官吏まで大勢いる。身元が確かであることを確認しているはずだが、それでも年に数度は盗難などのちょっとした事件の話は聞こえてくる。しかし、城の奥──王族に近しい空間ともなれば、出入りできる人間はごく限られていた。中央の国の書庫は、そうした管理の厳しい区画にある。
城内で騎士団長だったカインの顔を知らないものはほとんどおらず、書庫まですんなりと入ることができた。アーサーがあらかじめ口利きをしてくれたからだと思いたいが、そうでなければ不用心だ。カインは小さく苦笑して、それから書庫の扉を叩いた。入口で司書官に名前を告げると自由に見て構わないと言われた。ただし、書物や資料の持ち出しは厳禁。メモを取った場合も中身を改めさせてもらうとのことだった。カインは司書官の説明に頷いて書庫の奥へと入った。
誰でも目にできるもの──例えば儀式の説明であるとか城内で働く人間の名簿であるとか──は別の場所で管理されている。ここで保管されているのは貴重かつ公にできない資料ばかりだった。そのひとつが地図だ。カインは騎士団長時代にも足を止めたことのある書棚から一枚の地図を引き出した。
「何それ? 地図?」
カインは驚いて声を上げそうになったのを慌てて飲み込んだ。書庫はしんと静まりかえっていて声を上げれば目立つ。司書官は入り口の近くにある小部屋で事務作業をしているが、大きな声を上げれば何事かと出てくるに違いない。
「オーエン」
カインは抑えた声で自分の後ろから地図を覗き込んできた男の名を呼んだ。魔法舎では姿を見せなかったというのに、今ここにいるオーエンは前から側にいたような顔をして立っている。
「なんでここに」
「騎士様が入っていったから」
オーエンはにやりと笑った。本気で姿と気配を消されたら、普通の人間はおろかカインだって気づけはしない。
「この城も大概呑気だね」
「おまえが本気を出したら大抵の城は手薄に見えるだろうさ」
「当然」
オーエンは得意げに胸を張った。北の魔法使いにとってはどれだけ厳重に守りを固めた城も、破るのは容易い。彼が侵入したことで門兵や司書官を責めることのできる者はいないだろう。
「静かにな。バレると面倒だしアーサーに悪い」
「わかってるよ。おまえより上手くやれる」
オーエンは再びカインの手元の地図に目をやった。
「それで? 何を探してるの」
「夢の中でロザリーは三ヶ所の地名を言い残していった。彼女曰く、『私たちの恨みとあなたたちの罪』のある場所だ。まずはそこから調べている」
「夢?」
「ああ。この痕ができてから、夢の中で彼女と話せるんだ」
「何それ」
オーエンはむっとした顔で唇を結んだ。
「騎士様を夢の中で誘惑して、誘い出そうって魂胆? 随分いけすかない魔女じゃないか」
「そういう感じではなかったけどな」
「どうだか」
カインが広げた地図には中央の国の地形や街の位置が詳細に書かれている。ロザリーの墓があった街は西の国との国境付近にある。近くを川が二つ流れていて、川を水源にして農業を営む村が散在している。中央の都の処刑場はこの城からそう遠くなく、地図を見るまでもない。最後のリンカ領は北の国と接する山脈沿いにある地域だ。
「地図なんてどこにでもあるでしょ」
「普通の地図は街で買える。だけどここまで詳細な地図はこの国では──おそらく他の国でも機密として扱われてるはずだ」
「なんで」
カインは指で山の稜線をたどった。
「詳細な地形を把握できれば攻め落とすのは随分楽になる」
だから、どの国でも精度の高い地図は国外に持ち出されないよう厳重に管理されている。
「人間が知らなくても、僕らは知ってる」
「そうだな」
カインは肩を竦めた。この国の本当の形を知っている人間は少ない。皮肉にも国におもねらず生きる魔法使いたちこそ、その本当の形をよく知っているものだ。空を飛べば、地図などなくても地形を知ることは容易い。
「リンカ領は北の国との国境近くにある一帯だ」
カインは指で地図の上をなぞる。
「この国では貴族がそれぞれの領地を治めるが、リンカ領だけは少し特殊な事情がある。リンカ領は一代貴族のために分割して与えられることになっている土地なんだ」
「一代貴族?」
「中央の国では大抵が騎士だ。この国では平民でも騎士になれる。そして、功績を上げれば本人一代に限って貴族と認められるってわけ」
「へえ」
オーエンはカインが思っていたよりも興味深げに頷いた。
「騎士が拝領する土地は王族の直轄地だ。何百年か前に王が騎士に下げ渡して以来、リンカ領は代々騎士が拝領する土地となった」
他の領地と異なり、リンカ領に領主が住まうことは少ない。実際に土地を治めるのは代々その土地で暮らす人々の中から選ばれた役人たちで、リンカ領を与えられた騎士はそのまま主君の側で務めを果たす。領主として徴収した税による収入を得られるのは大きなことだが、一代しか領主の権利は認められないから、家族を伴って領地に居を移すことも稀だった。
カインはそれぞれの街や領地の歴史を調べるために書棚から本を抜く。書庫は人一人が通れる通路を挟んで、黒檀の本棚がそびえ立っていた。書名であたりをつけ、集めた本を机に積み上げてぺらぺらとページをめくって言った。なにしろ本の数は人の一生で読みきれないほどある。
オーエンもぶらぶらと書庫を歩き回っては、本を手に取って読んでいた。本に目を落としているときのオーエンの顔には表情がなく、ただじっと文字を追っている様子は静かに降る雪を思わせた。
小一時間ほど書物を調べていると、オーエンはおもむろに机を挟んでカインの向かいに座った。
「何か手がかりはあった?」
カインは首を横に振った。
「ロザリーの墓があった街は聞いた通り中央の国と西の国で領土争いをしていた地域だ。近くに水源があって、気候も温暖。作物を育てるのに向いている土地だからどちらの国も欲しがった」
「それで戦争?」
「ああ。三百年くらい前に中央の国が支配して、それからずっと中央の国の一部だ。その後で西の国とは停戦協定をを結んだからな」
オーエンはふっと息を吐いた。
「奪った方が手に入れる。わかりやすい話じゃない」
「……そうだな」
オーエンの言う通りだ。ここ百年ほどは五カ国が互いに不干渉を貫く方針で表面上は友好を保っている。しかし、歴史を紐解けば領土や実権を巡る争いの繰り返しだ。言葉にすればあっさりしているが、戦場となった街で暮らしている者からしたらたまったものではなかっただろう。
カインを襲った紙片もあの街で暮らし、そこで死んでいった魔法使いが残したものだろう。
「処刑場は?」
「処刑場は直接見た方が早いかもしれない。街はずれの丘にある。もともと罪人を裁くための場所だが、もう長いこと使われていないはずだ」
オーエンはふうんと興味なさそうに頷いた。
「それで、最後のひとつは?」
「リンカ領は北の国との国境に近いが、北の国との間には山脈があるから領土を争ったような歴史はない」
「領土以外でも争うことはあるだろ」
オーエンの言葉にカインははっと顔を上げた。
「騎士様が夢の中で聞いたっていう魔女の言葉。国境の街、処刑場。彼女たちの恨み。全部並べると共通点が見えてくる」
「……人が大勢死んだ場所だ」
「それで、リンカ領では何が起きた?」
彼の声にはいたぶるような色があった。心の奥にある柔らかいところを根こそぎ掻きだすようにカインに続きを促した。
「これも西の国と戦争をしていたころの話だ。当時の中央の国で次の王位をめぐって王子派と王弟派で国が二分されていたらしい」
「どこかで聞いた話みたい」
「別に今は国が割れてるわけじゃない。次の王はアーサー殿下だ。──っと脱線した。リンカ領はもともとこの時の王弟が持っていた領地で、彼自身もよく滞在していたらしい。そこに王子派が差し向けた騎士団が襲い激しい戦闘になった」
リンカ領の由来は騎士時代に聞いたことがあったが、伝え聞いた話以上に凄惨な争いだったことが書物には残っている。
「リンカ領の城は当時難攻不落と言われていたそうだ。王弟派は城に籠城。王子派は最初こそ城を落とす勢いだったが、攻めきれず、最後には城下に火まで放ってようやく城を落としたそうだ。炎は三日三晩街を焼いたと伝わっている」
「最低」
オーエンの感想には頷くしかない。戦場になった街でどれだけの人が死んだことだろう。
「結局王位は王子が継ぎ、リンカ領は功績あった騎士たちに与えられた。領民からしたら自分たちの土地を焼いた人間が領主なんてすぐには認められない。だから、長い間領主と領民の間の摩擦も絶えなかった」
重税を課されたと訴え出る領民の嘆願があったことや、抗議した領民が斬り捨てられた記録が残っていた。いわばこの国の汚点である歴史はひっそりとこの書庫に眠っている。
三箇所の共通点を見出すのはもう難しくはなかった。すべてこの国が殺した者たちの眠るところだ。
かつてその場所にいたものから中央の国への恨み、憎しみを込めた呪い。そうであるなら、ロザリーは呪いを掛けたのではなく、呪いに気づかせるための魔法を残したのだ。
「騎士様は必要なら殺せる?」
剣の切先が突きつけられるように問いだった。オーエンは真正面からカインに眼差しを向けている。そこに感情はなく、ただカインの内面を映す鏡のようだった。
カインはためらわず答えた。
「ああ」
騎士に任じられた時、迷わないと決めた。信が置けない主君に仕える価値はないが、仕えると決めたなら躊躇いは捨てる。カインはもうこの国の騎士ではないけれど、賢者の魔法使いとして賢者を守るためであれば自分は人間でも魔法使いでも斬れるだろう。
オーエンは苦い果物を齧ったような顔をして、それでも言い募ることはなくそっと目を伏せた。
「《クーレ・メミニ》」
彼が呪文を唱えると、書棚のあるべき場所に本が収まった。そして彼の姿も、蜃気楼のように消えてしまった。
処刑場は墓地を抜け、さらにその奥にある丘の上にあった。眼下には街がよく見える。ここが最後に使われたのはもう百年以上も前のことになる。墓地はともかく、この丘までやってくる者は少ない。カインも場所こそ知っていたが、訪れたのはこれが二度目だった。
「オーエン」
試しに名前を呼ぶと目の前に人影が現れた。ひらりと肩にかけた白い外套の裾が風にはためいている。
オーエンが魔法で姿を消していても、カインには彼がそこにいるとわかることが度々あった。最初こそオーエンはカインが気づいたことに驚いていたが、最近は彼もさして気に留めなくなっていた。
「何もないんだね」
オーエンは目を細めて丘を見渡す。彼の言う通り、ギロチンや磔にするための板が放置されていることもない。本当に何もない場所だった。
「ここで罪人を処刑してたのはもう百年以上も前の話だ」
昔は見せしめとしてこの見晴らしの良い丘で処刑されていた。街の住人たちへの戒めの意図もあったし、罪人の処刑は彼らの娯楽でもあった。今は死罪になったとしても、処刑はひっそりと城内で行われる。そもそも死罪となるような犯罪は滅多にない。中央の都は大勢の人間が出入りする街ということもあって、窃盗などの軽犯罪こそ少なくないが、概ね平和な街だった。
「死んだ奴らはここに埋められているんだろう?」
オーエンは足元を指さした。罪人には墓はない。処刑され、土の下に埋められる。
「そう聞いている」
カインは息を整えて、あたりの様子を伺ったが魔力の残滓は感じられなかった。
「呪いがあったとして、媒介もなく何百年を効力を発揮するのはほとんどあり得ない。国境の街にあった呪いだって、あんな子供騙しのような効力しか発揮できなかった。ましてや……」
オーエンはくるりと一回転すると花が咲くように笑った。
「良かったね騎士様。土の下の死者はきみを呪う力もない」
風が吹き土埃が待った。丘の上に樹木はなく、足元は茶色の乾いた土と、それを所々覆う緑の草だけだった。
「呪われたくはないが、俺に知るべきことがあるのなら何か残っていた方が良かった」
「知ってどうなる?」
「わからない」
ここで処刑されたものを憐れむ気持ちはなかった。断罪されるべきとその時代の者たちが決め、執行しただけの話だ。今になってどうこう言う権利はない。ただ、知りたいとは思った。
「北の国では大抵罪を犯したものは殺される。もちろんその村や街を庇護している魔法使い次第だけど、どこも秩序を乱した者を生かしておくだけの余裕なんてない」
オーエンはぽつりぽつりと語った。
「寒いところで死ぬのは難しい。胴体を真っ二つにしても血がなかなか流れないからずっと死ねないこともある。だから、慈悲深い魔法使いは首を落とす。意地の悪いやつは手足を落として、少しずつ弱っていくのを楽しんだりもする。死ぬまでの間、みんな泣いてるか呪詛を吐いてるけど、人間の言葉に力は宿らない。魔法使いだってどれだけの恨みをこめても死んだ後に呪いが残るのは稀だ」
何百年と見てきた光景だった。どれだけ未練があろうと恨みがあろうと、ほとんどの場合死んだらそこで終わりなのだ。
「だから、知ってほしいとロザリーは言ったのかもな」
「は?」
「死んだあとには何も残らない。事実が書き残されることだって稀だし、たとえ書き記されても書庫の中で誰にも開かれず眠っているかもしれない」
カインは右腕に刻まれた痕をそっと撫でた。だから、「知ってほしい」と彼女は呼びかけたのかもしれない。
「……ファウストにでも聞いたら?」
「ファウストに?」
「呪いに詳しいから。ここの処刑場にも」
「……? ああ……聞いてみるか」
オーエンはいつの間にか取り出した箒を手に取って、街の方へと飛び去った。カインも追いかけるようにその背中を追う。行き先は同じはずだった。
魔法舎はいつも誰かの気配がする。カインは賢者の魔法使いに選ばれる前から騎士団の宿舎で生活していたから、誰かが同じ空間にいるのは慣れていた。むしろ、人の気配がする方が居心地が良い。ファウストはカインとは真逆で、いつも一人になれる場所を常に探しているようだった。
「ファウストを知らないか?」
カインはネロに尋ねた。夕食後のキッチンは静かだ。ぐつぐつ音を立てる鍋もなく、今はコンロの上にある薬缶がシューと白い煙を吐くばかり。
「部屋には?」
「いなかった」
カインは肩を竦めた。ネロは首元に手を当てて考える。この時間に部屋にいないのであれば、散歩でもしているのだろう。
「魔法舎の中庭に出て、裏の森まで歩いて見れば会えるんじゃねえかな」
「行ってみる」
「待て待て。手ぶらで行ったら追い返されるぞ」
ネロは苦笑するとポットを取り出した。快眠の効果があるというハーブティーの茶葉をポットの中に落とすと、薬缶を取って湯を注いだ。
「《アドノディス・オムニス》」
ポットとカップに魔法をかけてバスケットの中に入れた。これでしばらくは温かいままだ。
「ほら、賄賂」
ファウストは頼ってくる若い魔法使いを無碍にはしない。けれど、こういう言い訳があった方が彼自身が助かることをネロはよく知っていた。
「ありがとう」
カインはバスケットを受け取るとキッチンを出ていった。食堂を抜けて、中庭に出るガラスの扉を押し開けた。月の──〈大いなる厄災〉の明るい夜だった。
中庭を通り魔法舎の裏手の森へ歩く。森は魔法の修行にもよく使われている場所だった。危険な野生動物がいるわけではないが、森と呼べる程度に樹木は生い茂っているし、ウサギやリスといった小動物も見かける。だから、夜中に訪れるような場所ではないように思っていた。けれど、今日は月明かりのおかげか魔法で明かりを灯さずとも歩くのに不自由はなく、風が揺らす木々の音が寂しくない程度に響いていて、存外心地の良い場所だった。これなら夕食後の散歩には悪くない場所かもしれない。
森の中を進むと人の気配がした。カインが声をかける前に向こうから彼の名前が呼ばれた。
「カインか」
「ああ」
応えてバスケットを持っていない右手を伸ばすとその上にぽんと手のひらが載せられた。
「こんなところでどうした?」
「あんたと話がしたくて。あー……お茶でもどうだ?」
そう言ってバスケットを差し出すと、ファウストは小さく笑った。
「ネロの差金か」
カインは素直に頷いた。ファウストは朽ちて倒れた木の上に座っていたらしい。再び腰を下ろすと隣を指し示した。ネロが用意したハーブティーは温かくカップに注ぐと湯気と共に柔らかい香りが漂った。
「それで?」
「処刑場に行った」
ファウストの肩が震えたのがわかった。
「なぜ?」
「俺の夢の中で魔女ロザリーが示した場所のひとつだったから。それで、オーエンが呪いのことはあんたに聞くといいって」
カインは処刑場に行った経緯をファウストに話した。ファウストは、苦々しげな表情を浮かべると一言こぼした。
「最悪だ」
「何が?」
「オーエンだ」
ファウストはそれ以上何も言わず、しばらくじっと何か堪えるように口元を引き結んでから再び問いかけた。
「それで僕に何を聞きたい?」
「呪うほどの想いと呪いとの違いはなんなんだろうって。呪いをかけられたら否が応でも向き合わなきゃいけない。けれど、そうでなければ俺たちは何も知らずに生きていくことができる。その境目ってなんなんだろう」
ファウストは声を出して笑った。
「そんなことか」
「笑うなよ」
「いや、案外簡単な問いだった」
ファウストはちらりと頭上にある〈大いなる厄災〉を見上げて、それから告げた。
「力だ。呪うだけの魔力があるかどうか。呪う相手よりも強いかどうか。それだけだ」
清々しいほどにシンプルなこの世の真理だった。
「それなら、呪いさえ残らないものをどうやって知ればいい? 知ってくれという呪いは、どうやって解けばいい?」
「君は呪い殺したいと思うほどのことをされて、理屈で赦せるか?」
カインは答えられなかった。ファウストは頷くと続ける。
「そういうことだよ。赦したり赦されたり、忘れたり忘れられたり。全てはあるようにしかならない。ただ一つ確かなのは、強いものだけが強い呪いを残すことができる」
「あんたみたいに?」
「僕は別に強くない」
ファウストは自嘲した。彼らが腰を下ろした朽ちた大木と同じ匂いのする笑い方だ。
「僕にはその魔女のしたいことはわからない。君は──君たちは知っていても知らなくても同じものを選ぶと思っているから」
それからカインに空になったカップを差し出す。話はここまで、という合図だ。
「ありがとう。あんたと話せてよかった」
立ち去るカインの背中に、ファウストは投げやりに言葉をかけた。
「花でも手向けたらいいんじゃないか?」
「花?」
「どうせ意味はないんだ。それなら花でも手向けておけばいい。死者への礼儀として」
カインはファウストに礼をするとその場を去った。
外から見る魔法舎は明るく見えた。窓越しには灯りが見える。今の賢者がこの地にやってくるまでは魔法舎にこれほど魔法使いが集まることは少なく、もっとひっそりとしていた。
中庭から魔法舎の中に入り、キッチンにバスケットを返しにいく。それから部屋に戻ると扉の前に人影があった。
「賢者様?」
呼びかけると彼はカインの方を振り返った。
「こんばんは。カイン」
「どうしたんだ? 俺に何か用か?」
「はい。少し話せませんか?」
「ああ。喜んで」
カインが笑うと賢者もほっと息を吐いた。カインは賢者を部屋の中に招き入れた。先日襲いかかった紙片をオーエンが燃やした後、多少片付けておいてよかった。
「あれから呪いの件はどうなりました?」
賢者に問われてカインは気まずげに目を逸らした。
「まだ何も……。手がかりを探しに明日また出かけようとは思っている。北の方にあるリンカ領って呼ばれている地域だ」
「リンカ領!」
賢者は驚いた顔をした。
「どうした?」
「ちょうど今日調査依頼が来た場所の名前だったので」
「どういう異変なんだ?」
「魔法生物らしきものの目撃情報です。中央の魔法使いに行ってもらおうと思ったのですが、目撃されているのが夕方から夜にかけてなので……」
「オズの魔法が使えなくなる時間か」
「はい。それで北の魔法使いに声をかけることにしたんですが……」
任務に対してどこよりもやる気がなく、引っ張り出すのが難しいのが北の国の魔法使いたちだ。
「俺にも行かせてくれないか? この呪いにも関係があるかも知れないし」
賢者は頷いた。
「はい。カインが参加してくれるなら心強いです」
明日の昼頃までには調査に行く魔法使いを集めると賢者は請け負った。
「大丈夫ですか?」
「ん?」
「何か気がかりなことでもあるように思えたので」
「いや、ちょっと考えることが多くてさ」
この国に対する呪いであるなら、やはり最初に呪いが向けられたのはアーサーだったのだろう。そう考えれば、カインは巻き込まれたことに一つも後悔はなかった。
「賢者様は俺のことを健やかだって言っただろ?」
「はい」
「俺が誰かに優しく友好的でいられるとしたら、それは俺がそうしてもらってきたからだって思ってるよ。平和な時代に幸福に生きてきた。愛されてきたから同じだけ愛することができる」
家族や友人、同僚。賢者の魔法使いの仲間たち。彼らに分け与えられてきたものがあるから、惜しみなく与えることができる。この世界を祝福して、尊ぶことができる。
「あんたもその一人だよ。あんたが俺を褒めてくれる。今みたいに気遣ってくれる。それが嬉しいからそれに見合うだけのものを返してやりたい」
カインがそう言うと、賢者は照れくさそうに笑った。
「俺もカインと話してるとカインみたいにかっこよく生きていきたいなって思いますよ」
「そりゃあよかった。だから、俺には賢者様がいて、賢者様には俺がいて。でも、そうではない人たちに俺は何ができる?」
呪いたいほど酷い目に遭ってきた人たちに何ができるのだろうか。この世界の悲劇全てを救えるような力なんてない。時に何かを選んで何かを見捨てる。その時に、迷わず切り捨てられる自分は、何も返せないのだろうか。
「月並みですけど、俺はカインみたいに気づいてくれて、想いを馳せてくれるだけで、救われた気持ちにはなります。何の解決にもならないし、過ぎたことを取り返すこともできないけれど、知っていてくれる人がいるだけで世界から見捨てられたわけじゃないんだって思える気がします」
賢者は真剣な眼差しをカインに向けた。自然と背筋が伸びる。
「俺はこの世界に初めてやってきたとき、ひとりぼっちで、怖くて、でもカインに優しくしてもらったから別に辛いばっかりの世界じゃないんだって思えました」
「そっか」
背中を押された気がした。ロザリーは「知ってほしい」と言った。それ以上のものを彼女は求めない。けれど、知ることこそは呪いだ。自分がどれだけ無力であるか、自分達が生きてきた道の上で何が犠牲になってきたのか。知らない自分には戻れず、かと言って立ち止まることもできない。
生きている限り。