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昼過ぎに調査に向かう魔法使いたちが集められた。カインの他にオーエンとブラッドリー、それにスノウとホワイトがリンカ領に向かう準備をしている。
「ミスラは?」
オーエンが尋ねると双子は深くため息をついた。
「機嫌が悪そうで行きたくないと駄々をこねる」
「カインもいることだし今日はこの五人で良かろ?」
ホワイトが賢者に問いかける。
「はい。まずは調査をしてほしいとの依頼なので、応援が必要ならまたその時考えましょう」
依頼があったのはリンカ領の北端にある村だった。北の国との国境になっている山脈地帯にある。今から空を飛んでいけば夕方には着くだろう。
賢者はカインの箒に相乗りして北へと向かう。道中で村で目撃されたという魔法生物の話を賢者は魔法使いたちに伝えた。
「なんでも巨大な白い虎のような生き物らしいです」
「虎は北の山にいねえだろ」
ブラッドリーは怪訝な顔をした。この世界だと虎は主に南の国で見られる動物らしい。
「いないから依頼が来たんだろうな」
カインの言葉に賢者は頷いた。
「はい。そもそもその虎、ちょっとした家くらいのサイズがあるとか」
「は?」
「見間違いでなければ確実に魔法生物じゃろうな」
「〈大いなる厄災〉の影響だとするとちと面倒かもしれん」
スノウとホワイトはくるくると賢者の周りを回転しながら飛ぶ。
「本当にいたって、倒せばいいだけだろ」
オーエンは気負いしない声で言った。
「そうそう。期待してるからね」
スノウがそう言うとオーエンはそっぽを向いた。
「もうそろそろだ」
カインが告げると眼下に集落の姿が見えた。
賢者と魔法使いたちは村のすぐ側に降り立った。中央の都はもう夏だと言うのに、賢者の吐く息は白い。あらかじめ厚手の冬服を着込んできたから良いものの、夏服だったら凍えていたところだ。地面にも薄く雪と氷が張っている。上空から見ると山の方はさらに白い雪が厚く積もっていた。
「この辺は真夏の短い時期を除いてこんな感じらしい」
カインもリンカ領に来たのは初めてだった。話には聞いていたが、中央の都とは全然違う。寒冷地ゆえに農業は栄えていないが、代わりに貴重な鉱物が取れることで有名だった。
依頼のあった村に入ると、村長と名乗る男が彼らを出迎えた。
「こんにちは。魔法舎に依頼をしたのはあなたですか?」
「ええ、私です。こんなところまでありがとうございます」
通された村役場はこの村で一番大きな建物だった。それでも仕事をするための大きめの部屋が一つと賢者たちが通された応接室が一つ、他には倉庫らしき部屋があるきりだった。応接室には大きなストーブがあり、てっぺんに載せられた薬缶からは湯の沸く音がする。窓は曇っていて外は見えない。
「お待たせしました」
村長の他に男が一人入ってきた。村長よりも若い三十前後の青年だ。
「彼はマース。依頼書に書いた虎の目撃者です」
「俺は晶と言います。マースさん、詳しくお話を聞かせてくださいね」
「はい」
マースという青年は魔法使いに囲まれて緊張しているようだったが、例の虎と遭遇した時のことをゆっくりと話し始めた。
「自分はこの村役場で働いています。領内の土地を管理する担当です。だから、その日はリンカ城の見回りをすることになっていました」
「リンカ城?」
ブラッドリーの問いにはカインが答えた。
「この村の近くにある城だ。と言ってももう廃城になっているはずだ」
「はい。大昔に焼け落ちて廃城になったと聞いています。もともとこの村はリンカ城の城下町でしたが、城が落ちたあとはもっと南の方の村や街の方が栄えていきました。領内を管理するもっと大きい役所も南の街にありますし」
マースは一呼吸置いて続けた。
「リンカ城は廃城となったものの半年に一回ほど私が見回りをしています。盗賊なんかのアジトになっても困りますし、誰かが立ち入っていないかを確認する程度の仕事です」
リンカ城はここからさらに山を登った先にある。面倒ではあるが、それほど大変な仕事ではなかった。
「いつもなら当然日が暮れる前に山を降ります。このあたりの山道を歩きなれているとはいえ、わざわざ暗い中を歩く必要はありませんから。ただ、今年は城内に崩れかけた部分があって、それを領主様に報告するために調査をしたり誰かが崩落に巻き込まれないように目印を置いたり……。いつもよりは時間がかかったんです」
仕事を終えた頃には日が傾いていた。リンカ城のあたりは一年を通して雪が消えることはほとんどなく、人や獣の足跡は雪上にはっきりと残る。しかし、最初それが足跡だとマースは気づかなかった。何しろその足跡は彼の頭よりもずっと大きかったからだ。
「なんだろうと足跡を追って城の裏手側に向かったところにいたんです。真っ白な体に墨で描いたような模様の虎が」
大きさはおよそ城の二階部分に届くほどはあったという。マースは驚きと恐怖で足が止まり、しばらくその場にへたり込んでいた。虎は辺りをうろつき、そのまま山の方へ消えていった。
「見間違いじゃねえんだな?」
ブラッドリーが尋ねると彼は首を上下に振った。
「見間違いなんかじゃありません。暗くなりかけていたとはいえ、ランプもありました。それに私以外にも山に入った人間が同じように虎の姿を見ています」
カインが視線を村長に向けると彼も頷いた。
「同じような目撃情報がここ半月の間に続いています。最近はこの村のすぐ近くの林で見かけた者もいます。村が襲われたら、私たちになす術はない」
「わかりました。俺たちが調べてみます」
「助かります」
村長とマースは深々と頭を下げた。早速調べに行くことにして、マースには山の簡単な地図を書いてもらった。目撃場所も添えてある。
「直近の目撃場所は村のすぐ近くです」
「山を下りてきてるってことか?」
そうだとしたらあまり猶予はないかもしれない。日が落ち、双子は額縁の中に入ってしまった。
「我らと賢者は目撃者の話を聞いて回ろう」
「そうしたら俺は一番最近見かけたっていう林の方を見てくる」
ブラッドリーは魔道具の銃を構えて村の外に向かった。
「俺はリンカ城の方を見てきてもいいか?」
カインはマースから受け取った地図を眺めて言った。
「お願いします。オーエンもカインと一緒に行ってもらえますか?」
「……わかった」
オーエンは気乗りしない顔で、それでも頷いた。
カインとオーエンは地図にそってリンカ城に向かって飛んだ。山を登るほどに気温が落ちていく。山の向こうの北の国ほどではないが、このあたりも人が暮らすには厳しい気候だ。
「《グラディアス・プロセーラ》」
呪文を唱えて明かりを灯した。
「それが焼け落ちた城?」
「ああ」
城は朽ちかけていた。石造の外観は城の体裁を保っていたが、内部は廃墟と呼ぶに相応しい。マースが言う通り、一部は崩落しかけており、人が立ち入らぬようロープが張られていた。
オーエンは城の正面に佇むと、じっと耳を澄ませるようにあたりの様子を窺っていた。カインも剣に手をかけて城の周囲を探索する。見渡した限り動物の気配はなく、足跡のような痕跡も今はない。かつてあったであろう城壁は影もなく、戦の際に壊されたか、朽ちて崩れたのかも見当が付かなかった。
再び正面に戻るとオーエンの姿はなかった。足跡が城内に伸びているのを追いかける。崩れそうな建物の様子を気にしつつ進むと、オーエンが地面に膝をついていた。
「どうした?」
「掘り出された跡がある」
オーエンがいたのは城内の部屋だった。何に使われていた部屋かも判別できない。地面にはオーエンの言う通り掘った跡があった。彼が指で払ったところを見ると、何かが埋まっていたようだった。
「ここに痕跡がある。わかる?」
オーエンに尋ねられて、意識してみれば確かに魔力の気配があった。それもかなり強いものだ。
「呪具か何かか?」
「さあ」
オーエンは指に残った土を払う。
「外は?」
「何もなかった」
ぎしと壁が軋んだ音がしたので、慌てて城の外に出た。あたりは相変わらずしんと静まりかえっている。魔法で灯した明かりと〈大いなる厄災〉の光がカインとオーエンの周りを照らしていた。このまま山の中を捜索するとなると、二人では手に余るかもしれない。一旦村に戻ろうかとオーエンに問いかけようとした時、右腕がかっと熱くなった。
カインがオーエンの方を振り返ったのとオーエンが呪文を唱えたのは同時だった。
「《クアーレ・モリト》」
バンっという激しい音と振動が響いた。オーエンの張った結界越しに真っ白な塊が見える。
「オーエン!」
雪煙が上がる。オーエンは結界を張ったまま距離をとった。
そこにいたのは白い虎だった。村の人間の言った通り、足の長さだけでもひと一人分の身長はある。雪景色に溶けるような白い体毛に所々墨色の毛が混じっている。こんな状況でなければ見惚れていただろうと思う立派な獣だった。
「《クーレ・メミニ》」
オーエンは魔法でトランクを開ける。咆哮とともに三つの頭を持った獣が現れた。結界が割れ、オーエンに飛びかかる虎の脇腹にケルベロスが噛み付いた。虎に比べると猛犬は小さく見えた。
「大丈夫か?」
カインはオーエンの方に駆け寄った。オーエンに怪我はないようだった。彼は険しい顔をしてケルベロスの様子を見ている。
「駄目かも」
「えっ」
声を上げた瞬間、弾丸のようにケルベロスの体がカインとオーエンの方へと飛んできた。唸り声が上がる。
「《クーレ・メミニ》」
オーエンの呪文がケルベロスに向かって放たれる。ケルベロスは起き上がると再び虎の方へと向かっていった。
「時間稼ぎにしかならない」
「嘘だろ!?」
しかし、カインにも虎のまとっている魔力が尋常ならざるものであることはわかった。濃い魔法の匂いがする。
虎は図体の割に俊敏だった。ケルベロスの攻撃を避けると、そのまま素早い動きで地面に叩きつけて横腹に噛み付いた。
「ここは開けすぎてる。あのスピードで襲われると避けきれない」
カインはかつて城壁で囲まれていた城の敷地の外、山の中を示した。オーエンは頷いた。
「騎士様は村まで下りていって。賢者様たちにこのことを伝えるんだ。わかった?」
「オーエンは」
「二人で逃げたら村まで追い回される」
「……一人置いてはいけない」
「おまえがここに残っても時間稼ぎにだってならない」
オーエンは口元に嘲りを浮かべてはっきりと言った。カインは唇を噛み、それから渋々と頷いた。
「わかった。絶対にすぐ戻る」
動かないケルベロスをオーエンはトランクに戻す。虎は緑の透き通る瞳をケルベロスからオーエンへと向けた。
「行け!」
カインに声をかけると同時にオーエンは箒に乗って山を滑空した。地面すれすれを飛びながら木々の生い茂る中に飛び込んで行く。カインは高く上昇すると村の方向へと箒の先を向けた。虎はオーエンを追っている。
滑り落ちるようなスピードで村に向かって飛んだ。そのまま村に飛び込むとカインは賢者の姿を探した。思ったよりも早く見つかったのは彼が村役場の前に立っていたからだ。
「賢者様!」
「カイン!」
カインが声をかけると、彼も答えた。それから手の中にある額縁から双子の声が聞こえた。
「何が起きたんじゃ? 突然このあたりの精霊が騒ぎ出したぞ」
「おかしな感じじゃ。まるで〈大いなる厄災〉が近づいてきたような」
「虎が出たんだ! オーエンが山の方で足止めしてる!」
ほとんど叫ぶような声でカインは素早く告げた。賢者の顔色がさっと変わった。
「ブラッドリーは?」
「それが、姿が見えないんです。もしかしたらくしゃみかも……」
「こんな時に!」
ここにいるのは人間である賢者と額縁に入ったスノウとホワイトだ。虎と戦う戦力にはカウントできそうにない。
「その虎はそんなに強いのか? オーエンが苦戦するくらいに?」
スノウに問いかけられカインは頷いた。双子はむむむ…と額縁の中で互いに見つめ合い眉根を寄せた。
「魔法舎から救援を呼ぼう。ミスラならば、気づいてくれればアルシムしてすぐに来れるはずじゃ」
スノウとホワイトは声を合わせる。
「《ノスコムニア》」
二人の呪文に応じて一羽の鷹が現れた。伝言を託すための魔力で練り上げられた生き物だ。
「よろしくね」
鷲は鋭いスピードで魔法舎の方角へと飛び去った。
「俺はオーエンのところに戻る」
賢者は心配そうな顔で言う。
「俺も……」
「あんたはここにいてくれ。守れる自信がない」
「でも、カインだって」
「オーエンを一人にはできないから」
カインは箒に跨って宙へと舞う。
「スノウ様、ホワイト様。賢者様とこの村の人をお願いします。もしかしたら避難した方がいいかも」
「了解じゃ。村長には事情を説明しておく」
「カイン。死ぬなよ」
ホワイトの言葉にカインは頷いた。
オーエンは木々の間を飛びながら虎と距離を保って飛んだ。普通であれば木々が密集する大地をあの巨体で俊敏に動くのは難しいはずだった。しかし、虎は前足で木を薙ぎ倒しながらオーエンを追いかけてくる。通常の生き物ではあり得ない膂力だ。
「《クアーレ・モリト》」
髪の毛先を切り取って呪文をかける。ふわりと風に流れて三方向に髪の毛が散らばると虎の足が止まった。
「魔力を追ってる」
オーエンは箒から降りると木の影で息を潜めた。単純に姿を消しても虎は正確にオーエンを狙ってきた。つまりあの目は魔力の流れを追っているのだ。
髪の毛を媒介に囮を撒いたものの時間稼ぎにもならなかった。虎は正確に一番魔力の強い方に向かって来る。唸るような低い声がした。
「賢いね」
オーエンは動物と言葉を交わすことができたが、この虎の言っていることはわからなかった。おそらくは、生き物よりも魔法や呪いに近い何かなのだろう。
「《クーレ・メミニ》」
木の枝が伸びて虎の前足を絡め取った。きりきりと締め上げながらオーエンは虎の腹の部分を観察する。白に墨色が浮かんだ美しい毛並みの中でそこだけがどす黒く変色している。禍々しい魔力が宿っていた。
パキンと枝が折れる音がした。虎の牙が絡み付いた枝を噛みちぎる。右前足が自由になると、その鋭い爪がもう片足に絡み付いた枝を裂く。
「グルル……」
オーエンが呪文を唱えかけたその時、空から人影が降ってきた。
「《グラディアス・プロセーラ!》」
地面に引かれる力と魔法の力が込められた剣が虎の首を叩いた。
「騎士様!?」
オーエンは思わず声を上げた。
「悪い。遅くなった」
「なんで戻ってきたの」
「一人置いては行けないって言っただろ」
カインは剣を振り血を落とす。
「ブラッドリーは?」
「あー、どこかに行っちまったらしい……」
「は?」
「スノウ様とホワイト様の使い魔が魔法舎に応援を呼んでる」
「嘘でしょ……」
月明かりで表情までははっきりと見えなかったが、オーエンがどんな顔をしているかカインには想像がついた。おそらく自分と同じ顔をしている。
目の前で咆哮が響いた。
「延髄叩き斬って動く生き物がなんでいるんだ」
「生き物じゃないからだよ」
目の前の虎は生きていた。確かに急所を捉えたはずなのに、すでにその傷もない。
「腹に澱んだ魔力の源泉がある。おそらくマナ石と何かの呪具だ。あの城に埋められていたやつだろうけど、こんなに時間が経っていたら普通は呪具の効力も切れてる」
オーエンは早口で説明した。
「〈大いなる厄災〉のせいか」
カインは嘆息した。
「魔力の源を絶たないと殺せない」
「わかった。腹だな」
オーエンは虎の視線を真正面から受け、その後ろ足が大地を蹴るよりも早く呪文を唱えた。
「《クーレ・メミニ》」
後ろ足は氷に覆われ、大地に縛り付けられる。オーエンに向かって伸ばされた前足は先程のように枝に絡め取られ、体が半回転するように捻り上げられた。
「騎士様!」
オーエンの声にカインは露わになった腹に向かって剣を振り上げた。
剣が虎の体に突き刺さった瞬間、嫌な感じがした。何かが腕を這うような感触がして服の内側を、体の中を弄られるような感触。
「なんだこれ」
「離れろ!」
オーエンの声を聞こえて反射的にカインは剣を引き抜いた。傷口から黒い靄のようなものが溢れてくる。飛びのくと体に強い衝撃があった。
「……った……」
カインが体を起こすと虎を縛り付けていた氷と枝で作っていた鎖は千々になっていた。オーエンは立っていたが、左肩のあたりが黒く染まっている。月明かりに目を凝らせばそれが血だとわかった。
「オーエン!」
オーエンは虎を睨みつけると怒気の籠った声で呪文を唱えた。
「《クアーレ・モリト》」
地面が揺れる。虎を飲み込むように鳴動した大地はその足を地面に吸い込むように見えたが、虎は咆哮一つで抜け出してオーエンに襲いかかった。虎の体当たりをオーエンは躱すが、爪が体をかすめた。
カインはオーエンの方に駆け寄った。虎の力は北の魔法使いとも拮抗している。背筋を冷たいものが走る。これは恐怖だ。敵の力はあまりに圧倒的でカインは自分が戦力になれるとは思わなかった。
けれど、たとえ恐怖していてもカインはどこかで冷静だった。勝算がないのなら、カインたちにできることは他の魔法使いたちが現れるまで時間を稼ぎつつ逃げることだけだ。
「大丈夫か?」
「このくらいはなんともない」
オーエンはぎらついた目で眼前の敵を睨んでいる。彼の姿はさながら燃える篝火だった。それは、こんな時なのに、ひどく美しく思えた。
猛虎は緑の眼をオーエンに向けている。この一匹と一人はよく似ていた。彼らは決して屈せず、力を以て力を制す。そうやって生きている。だから、オーエンには逃げるとか時間を稼ぐとか、そういった言葉を聞く余地はないように見えた。
「幼い魔法使いの魔力さえ求めるなんて、意地汚い。見苦しいったらない」
それからオーエンはカインの右腕を取った。賢者の印。赤い痕。魔法の痕跡にオーエンは歯を立てた。
「いっ……た……。なんだよ」
「黙ってろ」
新しくできた傷跡にオーエンは自分の血を拭った指を重ねてもう一つ魔法をかけた。
「消えかけの魔女でも触媒があれば手助けくらいはできるだろう。吸い取られるんじゃない。飲み込むんだ」
「それってどういう……」
「もう一度だ」
オーエンの前には敵しかいなかった。そして彼は背を向けるつもりはない。だから、自然とカインもやるべきことが定まった。どれほど恐ろしくても、オーエンが戦うと決めた以上自分だけ逃げ出すつもりはなかった。剣を再び握る。
虎の爪がオーエンに向かって伸びる。それを不可視の盾でいなすと、オーエンは透明な氷の剣で緑の目を穿った。山全体を震わすような虎の叫びが響く。
カインは虎の両足に蹴られないよう気をつけながら体の真下に滑り込んだ。蹴り上げられたらおそらくひとたまりもない。
「《グラディアス・プロセーラ》」
呪文を唱えると右腕が熱くなった。剣は先程と同じように腹部を貫く。二度目は先程よりも何が起きているのかはっきりとわかった。そこにある何かはカインを求めていた。
「やめろ……」
まとわりつき、飲み込まれそうになるのに必死に抵抗する。黒い靄を払うように魔法の力を込める。
『散らすのではなく飲み込むイメージだ』
カインの頭の中に響いたのは夢で聞いた声だった。
『生きている方が強い。怖がらなくていい』
カインは素直にその言葉に従った。魔力が流れ込んでくる。体を撫でるような感覚は気持ちが良いとは言えなかったが、受け入れればそれはカインの体を流れては消えていく。
ふと手の感触が軽くなった。
「やったのか……?」
そう思った瞬間カインの体は強い力で跳ね飛ばされた。今まで受けたことのない衝撃が体を襲った。
魔法で防御ができたのはほとんど反射の賜物だった。それでも、カインは宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「……っ」
体がバラバラになったような痛みが襲い、呼吸ができない。辛うじて動くのは目蓋だけでその先で虎は断末魔の悲鳴をあげていた。オーエンの姿は見えない。
息ができないせいで意識が遠のいていく。その最後の瞬間まで、カインの瞳はオーエンを探していた。
「こんなことになるとは、思っていなかった」
「ロザリー……?」
彼女は申し訳ないという顔をカインに向けていた。
「あんたのせいじゃないんだろう?」
「私のせいではない。けれど、守る自信はあったのでね」
フードごと彼女は髪をかき上げた。黒曜のように艶のある滑らかな髪が肩に滑り落ちた。
「呪いに対応する守護の魔法……?」
「そう。私が生きていたころは、今よりもずっと多く人間も魔法使いも死んでいった。どこにでも争いがあり、裏切りがあった」
彼女はそっと語りかける。
「中央の国、グランヴェル家に向けられた呪いだ。私はそれを知っていた。呪う気持ちはよくわかった。けれど、呪いだけではそこにある想いは伝わらない。だから私は死後も残る魔法を残した。呪いから守る力。けれど、呪いを──そこにある想いを伝える魔法だ」
数百年の時を超えて、ほとんどの呪いは効力を失っていた。彼女自身の魔法も、もう失われかけているものだった。
「まさかリンカ領の呪いが〈大いなる厄災〉の影響であんなことになるとは。まあでも、君たちが解決してくれたからよかったか」
「いくのか?」
カインが問いかけると彼女は再びフードを被った。
「時間切れだ。無理やり力を与えてもらったからこうして最後まで騎士殿と話すことができた。感謝していると伝えてくれ」
彼女は自分の左目を指さした。
「最初はそれこそ性質の悪い呪いだと思ったんだ。私が手を出せる魔法使いではなかったがね」
そうして彼女は消えていった。
目を覚ました時、体に痛みはなかった。代わりに頭は鉛を詰め込まれたように重く、波のようにぐわんぐわんと痛みが襲う。全身が怠くて腕を動かすのも億劫だった。辺りは薄らと白い光が満ちて、夜と朝の間にいる。
「オーエン……」
右手に冷たいものが触れていた。首を動かすとオーエンの手が重ねられているのだとわかった。横たわるカインの横にオーエンは座っていた。戦闘であたりはめちゃくちゃになっていた。オーエンは倒れた木に体を預けて目を閉じていた。
カインの声にゆっくりとオーエンの目蓋が開いた。
「よかった」
ぽつりとそう言った。闇の中に消えていくようなささやかな声だった。
カインは何が起きたのかを思い出そうとした。虎の腹に剣を突き立て、倒せたと思った瞬間におそらくは蹴り飛ばされた。あの時、自分はこのまま死んでしまうと確かに思った。その確信は間違いでなかった。そうであるなら、今自分が生きているのは──。
「おまえが助けてくれたのか?」
「知らない」
重い体に鞭打って上半身を起こす。酷い倦怠感と寒気がしたが、体はちゃんと動いた。息もできる。
オーエンの体は冷たかった。体温のない手はいつものことだったが、顔色は蒼白で唇には色がない。
「オーエン……?」
彼の体がぐらりと揺れた。カインは身を起こして側ににじり寄る。外套はぼろぼろで、その下のジャケットも赤い血で汚れていた。腹のあたりから流れる血が地面の雪を真っ赤に染めていた。
「オーエン!」
呼びかけると重たげな目蓋を億劫そうに開いた。色違いの瞳は焦点が合わず、カインではなく朝日が昇る方角を見つめていた。
「死ねば……元通りだ」
そう言うとオーエンは血を吐く。苦しそうに顔を歪めて、呻く程の力もないようだった。
そこにある死の気配にぞっとした。たとえ生き返るのだと言われても、こうして生気が失われていくオーエンを見ていることはカインにとって耐えがたかった。
「血を止めないと……」
傷跡に伸ばしたカインの手をオーエンは払った。
「もう治せない。最悪……。痛くて寒くてたまらない……」
以前オーエンが言っていたことを思い出す。寒いところで死ぬのは難しい。冷えた体には血が巡らず、ゆっくりと死んでいく。痛みと寒さはそのままに。
「カイン」
優しいような弱々しい声は、残酷に響いた。
「僕を殺してくれる?」
カインが息をすると喉の奥が鳴った。静かな夜の中で自分の心臓の音だけがうるさい。
「それしかないのか?」
答えは聞くまでもなかった。もう一手早ければ。あと一撃避けれていたら。仮定の話はいくらでもあって、とどのつまりは自分の力不足を嘆くだけだ。守られてばかりで、守ることができなかった。
剣は側にあった。扱い慣れたものなのに、鞘から抜くのに手こずった。重いとさえ感じる。
「大丈夫だよ」
オーエンは目を閉じてそう言った。
「何も変わらない」
そう。きっとオーエンは何も変わらない。けれどカインにとっては、何もかもが変わってしまう。
こんなに恐ろしいことはできない。一方で、こうなってしまったからにはできることをしなければと冷静に考える自分もいた。恐怖と使命感がぶつかり合い、目を閉じて逃げ出したい衝動に駆られた。それでも右手は剣を掴み、鞘から抜いた。
剣の切先が震える。はじめ心臓の上に掲げるとオーエンは緩慢に首を振った。そこには何もない。わかっているはずだった。
首元を狙うのなら、オーエンの顔を見ないわけに行かなかった。息が止まりそうなほどの緊張感の中で、カインはそれでも剣を握り直し、真っ直ぐに振り下ろした。
カインはオーエンの体に縋っていた。剣は抜き身のまま側に置かれている。目の前では不思議なことが起きていた。オーエンの体はゆっくりと、けれど確実に元の形に戻っていく。傷口が治るというよりも、時間が逆回しになっているようだった。裂けたシャツの隙間から白い肌が見える。そこにはもう傷一つない。
オーエンの顔を見ることはできなかった。
「騎士様、なに泣いてるの?」
声は揶揄うような、それでいて優しい響きがした。恐る恐るカインが顔を上げればオーエンは笑っていた。晴れた冬の日の青空のようだった。
悔しくて、情けなくて答えることができなかった。安堵していた。でもそれ以上に、どうすることもできなかった後悔が頭の中にある。これだけの絶望をおそらくオーエンは何百年も何百回も重ねているのだろうと思った。
「オーエン……」
「ちょっと僕に鼻水つけないでよ」
「オーエン……!」
オーエンの体を抱きしめても、彼は跳ね除けなかった。完全に再生が終わらないと動けないから跳ね除けることができなかったのかもしれない。それでもしばらくして、カインの頭を冷たい手が撫でてからもずっとそうしていた。
「勝ちたい?」
オーエンはカインに問いかけた。怪訝な顔をするカインに向かって彼は問いを重ねる。
「強くなりたい? 負ければ失う。おまえの大事なものを、誇りを、守るためには勝ち続けなきゃならない」
それだけの覚悟でオーエンは生きてる。
「俺は、強くなりたい。誰も世界を呪わなくて済むように」
「馬鹿みたい」
オーエンは解けたカインの髪を指ですいて、それから涙でぐしゃぐしゃになった目元を乱暴に指で拭った。それからふふ、と笑うとオーエンは立ち上がった。東の空はもうすっかり明るい。空の上を飛ぶ鳥たちよりも大きな影が──魔法使いの姿が見えた。
「思い通りにしたいなら強くならなきゃだめだ。おまえが弱いことが、おまえの罪だ」
オーエンはそう告げると空に向かって合図をした。