5
魔法舎に戻ってからカインは三日寝込んだ。
「オーエンの魔法でちゃんと傷は治ってるみたいだけど、急激に魔法で体を治すと熱が上がることがあるからね。まあ数日休めばよくなるよ」
フィガロはカインを診察するとそう言った。それから壁に寄りかかってこちらを窺っているオーエンにも笑みを向ける。
「治癒の魔法、上手くなったんじゃない? 勉強した?」
オーエンはふん、と面白くなさそうにそっぽを向くとふわりと姿を消した。
「あれま」
フィガロはそれからカインの右腕を見る。賢者の紋章とロザリーが残した守護の印。そしてその上にオーエンの噛み跡がある。
「これって消せるのか?」
「俺が剥がすこともできるけど、かけた張本人に頼みなよ」
「張本人?」
「オーエンだよ。件の魔女の魔法を乗っ取って上書きした」
それでようやく最後にロザリーが残した言葉の意味が腑に落ちた。
「とにかく今は休んで。残ってたって害のない魔法だからね」
カインはフィガロの言葉に頷くと目蓋を閉じた。
ようやく熱が下がり動けるようになると、カインはオーエンを探した。食堂で朝ごはんを食べている時も見かけなかった。部屋をノックしても返事がない。さて、どこにいるのだろうかと魔法舎の中を見て回る。
「オーエン」
彼は談話室の窓際にいた。朝日に照らされて白い髪がキラキラと光っている。特別何かをしているとか何かを考えているということではなく、静かに佇んでいた。
「何?」
オーエンはカインの方を向くとつっけんどんに問いかけた。ほんの少し、感情という色が乗る。
「一緒に外に出ないか? 今日は特別な日だから」
「特別な日?」
「外に行けばわかる」
オーエンは頷かなかったが、拒否もしなかった。
「多分上から見た方がいいと思う」
そう言ってカインは箒を取り出した。オーエンと共に高く飛ぶ。
「いってらっしゃい」
空に向かって上昇すると、自室の窓から身を乗り出して手を振る賢者と目が合った。
眼下では花が舞っていた。
「中央の国の建国記念祭なんだ」
建国記念祭は中央の都が大いに盛り上がる一日だった。城では式典が行われるが、城下町では華やかに人々が祭りに興じている。
「建国記念祭は人に感謝する日だって言われてる。建国の礎となった人たちだけじゃなく、今ここにいる友人や家族にも感謝をする。その気持ちとして花を贈り合うんだ」
だからこの時期はどこもかしこも花の匂いに包まれている。通りには花びらが舞い、人々はすれ違う人たちに花を渡す。通りを歩けば両手は色とりどりの花でいっぱいになるだろう。
「馬鹿騒ぎしてる」
「そうだろうな」
カインの目に人の姿は映らない。空にも届く歓声と、人の集まる気配は感じられる。けれど、瞳に映るのは空にまで舞う赤い花弁とオーエンの姿だけだった。いつもはこうして目に見えないものが多いと寂しく感じられたが、今は不思議とそんな気持ちにならなかった。
風が吹いて花弁が二人を包む。オーエンの帽子が花と一緒に攫われる。
「おっと」
カインが宙を旋回して帽子をキャッチした。オーエンは旋回してカインの側までやってくる。
「髪の毛が花びらだらけ」
カインの髪にからんだ花弁を一枚つまみ上げて、それから彼が捕まえた帽子をひょいと奪った。
「下に降りる?」
オーエンが尋ねるとカインは首を振った。
「ちょうどいい場所があるからそこまでついてきてくれ」
カインの目的地はそう遠くなかった。都の大通りから離れた小高い丘の上。かつて処刑場として使われた場所だ。
「ここからだと街がよく見える」
カインは街を見下ろした。ここからでも街が賑わっているのは見てとれた。草の上に腰を下ろすとオーエンもその横に座った。
「なんでこんなところに?」
「昼過ぎになると城門から騎士団がパレードをする。ぐるっと街を一周。俺はお前のせいで魔法使いだってバレて、騎士の称号を剥奪されただろ。その年の建国記念祭の日、なんとなく見てるのが嫌になってここに来たんだ」
騎士が街を練り歩く姿は、カインにとって憧れるものだった。自分がそこに立つことはもうないのだと、否応なしに突きつけるのがこの日だった。
「でも、ここから見る街はやっぱり綺麗で──俺は騎士じゃなくても魔法使いでも、この世界とここで生きる人たちを守りたいんだなって思ったから」
気づいたらもう惜しくはなかった。
「長く生きていると人間の生き死になんてどうでもよくなる。瞬きをする間に生まれて死んでいく。覚えてなんていられない」
「俺はまだわからないけど、オーエンが言うならそうなんだろうな」
けれど、カインもあの街の中にいる人の名前を全て知らない。姿も見えない。それでも、幸福であれと、世界を呪わずにあれと祈ることはできる。人も魔法使いも対立する。全員の幸福を祈ることは偽善かもしれない。誰かの幸福のために誰かを傷つける日もあるだろう。それでも、言葉と心を交わしていたかった。
「俺はおまえのいる世界を守っていたいよ。おまえを守る……のは力不足かもしれないけど、おまえにひどいことが起きないような、そんな世界の一部でありたい」
「何それ」
オーエンは心底理解できないという顔をしていた。
「僕のことが好きってこと?」
「違う。嫌いになれないってことだ」
カインはオーエンの左目を見て言った。奪われたせいでこうしてまじまじと自分の目を見る機会が増えたのはなんだかおかしかった。
「目玉を奪われて好きになるもんか」
カインは苦笑いをこぼす。オーエンも花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「それはそうだ」
「俺は別にお前のことが好きじゃない。好きだったらひどいことを言われたら傷ついてしまうけど、好きじゃないから大丈夫」
「僕だって好きだったら目玉を奪うなんてひどいことしない」
それでも肩を並べてここにいる。明日も明後日もきっと好きにはならないけれど、ここで、どこかで、二人はそばにいる。そういう毎日があればいいとカインは願っていた。
「これ、お前なら解けるんだろ?」
カインが差し出した右腕をオーエンは掴んだ。シャツの袖口にあるボタンを外して赤く残った痕を曝け出す。
「《クアーレ・モリト》」
オーエンは優しく呪文を唱えると、舌で痕をなぞった。腕を掴む指よりも僅かに温かい舌先が丁寧に赤い線を辿っていく。こうして近くで見ると舌に描かれた賢者の紋章がくっきりと見えた。
「……ふふっ」
くすぐったくて思わず声が漏れた。
「動くなよ」
オーエンはそう言って、最後に舌で円を描いた。それからそっと唇を閉じると、カインの腕にあった魔法をそのまま咥えて引っ張り上げる。赤い痕は糸のようにするするとカインの腕から抜けていった。引っ張っているのはオーエンの唇。何かが抜ける感触に背筋が粟立つ。全てを引き抜くと、オーエンはそれをそのままごくりと飲み込んだ。
「食ったのか?」
「うん」
ぺろりとオーエンは唇を舌で舐めた。
「どんな味?」
「別に味はしないけど」
腕に残るのは賢者の紋章だけだった。呪いも魔女の祈りも全てはオーエンの腹の中だ。
「なんか甘いもの食べたい」
「それなら市場に行くか。たくさん出店が出てる」
「キャンディアップルは?」
「あるさ。それに花の形の飴細工がこの時期の名物で、きっとおまえは気に入ると思う」
「食べる」
「でも、ちょっと待ってくれ」
早く行こうと急かすオーエンをとどめて、カインは持ってきた一輪の花を地面に置いた。これは自己満足に過ぎないけれど、それでも知った者として、花を手向けるくらいのことはしたかった。
どうか安らかに。
「早く」
「ああ。行こう」
街に花が舞っている。カインの隣にいるオーエンは眩しそうな顔をしていた。
百年後も千年後もこの光景がありますように。カインは柄にもなく祈った。